去る5月21日で、裁判員制度が導入されてから丸3年が過ぎました。当初から、3年を経た時点で運用状況を検証することになっており、これから改善すべき点についての議論が本格化します。
大手メディアの報道では、制度は概ね順調に運用されてきたとの見方が多く紹介されているようですが、近代刑事裁判の要諦に抵触する問題点を指摘する声も少なからず聞こえてきます。
例えば、練炭自殺に見せかけて男性3人を殺害したとして木嶋佳苗被告に死刑判決が下された裁判員裁判(3件の事件を一括して審理したため、個別の審理が不十分だったのではないか? また、検察が裁判員の心証を誘導するために不適切な手法を採用したのではないか? 等々の疑問点が指摘されています)についての、ジャーナリストの青木理氏等による以下の問題提起は極めて重要です。
「そもそも裁判員は“法に基づく適正手続”について十分に理解するための適切なレクチャーを受けているのか?」「公訴権や強制捜査権などの強大な権力を持っている検察側の立証が十分であるか、そして捜査の手法や手続についてもチェックするという刑事裁判における本義がないがしろにされ、その逆に司法権力の手先として利用されてしまっているのではないか? 」
木嶋被告に対し死刑判決が言い渡された直後の記者会見に臨んだある裁判員は「達成感がありました」とのコメントを残しました。その発言から窺えるのは「権力をチェックする」視座ではなく、専ら「被告を裁く」という観点です。このような現状を鑑みれば、裁判員に量刑の認定まで委ねることには大きな疑念を抱かざるをえません。
この状態を看過すれば、裁判はその時々の感情的な世論に流され、「疑わしきは被告人の利益に」という近代刑事裁判における大原則がますます踏みにじられてしまうのではないかと危惧します。分岐点に立つ今こそ、裁判員制度の施行直前、2009年2月に刊行された
『裁判員制度と知る権利』を紐解きながら、改めて同制度の本質と課題について考え直してみたいと思います。