編集部だより
2008年07月24日
6月8日 「失われた世代」
6月8日(日)の午後12時半頃、私は秋葉原駅でJRから地下鉄に乗り換え、会議の場所に向かっていた。そのほんの少し前、秋葉原の歩行者天国で17人もの人が無差別に死傷された衝撃的な事件が起こっていたことを、夜のニュースで知った。被害の大きさもだが、秋葉原に着くまで犯行予告を克明にネットに書き込んでいたことや、居合わせた人が懸命に救護している一方で、携帯写真を撮って配信している「野次馬」の存在も多かったこと、容疑者が派遣社員で解雇されるのではないかという不安と不満を抱えていたことや、自分が「負け組」「不細工」であるからダメだという書き込みをネット上で頻繁にしていたことなど、現代を象徴する問題点がいくつも絡み合い、様々な視点から次々に報道された。
小泉内閣の規制緩和によって派遣先が無制限に拡大され、非正規・不安定な就労形態は、「ワーキングプア」という言葉で表される経済格差・貧困の温床となった。しかし、それ以上に、職場への帰属性や社会的存在感・つながりの剥奪(名前で呼ばれず「派遣さん」で一括される、いつでも代替の利く大量生産の部品と同じという使われ方)という精神的な荒廃のほうが根深い問題だと私には思われる。
もちろん、一般的に非正規職の人とこうした極端な事件を短絡的に結びつけるのは危険な発想であることは、池田小事件が(犯人は精神障害とは関係ないことが明らかだったにもかかわらず)心神喪失者医療観察法という保安処分の導入に政治利用されてしまったことからも肝に銘じておかなければならないだろう。
ところで、この容疑者と同じ「失われた世代」と言われる、25歳〜35歳くらいの非正規職、あるいは無職の人たちが、ネット上でこの事件を「加藤の反乱」と呼んでいるらしい。「秋葉原」と容疑者の名前を二重検索した結果知ったのだが、シンクロするように、朝日新聞の「秋葉原連続殺傷1ヵ月 3氏に聞く」というコーナーで「“反乱世代”の代表とみなされる」赤木智弘さんが書かれたコメントが目に留まった。
赤木さんはかつて『論座』誌上で「丸山眞男をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争」というタイトルで、「戦争という手段を用いなければならないのは、非常に残念なことではあるが、そうした手段を望まなければならないほどに、社会の格差は大きく、かつ揺るぎないものになっているのだ。戦争は悲惨だ。しかし、その悲惨さは『持つ者が何かを失う』から悲惨なのであって、『何も持っていない』私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる」という挑発的な言説を展開した。そして今回のコメントで、容疑者は社会的承認を求めて自力で社会へ訴えて失敗した。自分は自力での社会変革を断念して(なぜならば今の持てる層・安定層は、皆が幸せになるために自らの生活レベルを少し落とすという発想がないから)、「希望は戦争」と言った。今の社会は「自力でなんとかしろ」とは言えない、という。
しかし、「失われた世代」の不遇を託ち、「安定層」「持つ者」に対する不満を溜め込んでいる人々が、戦争による非常事態でこそ今までの構造が逆転し自分たちの存在感が増すという希望を灯すのは、挑発にしても危険すぎはしないだろうか。そもそも、「31歳、フリーター」ついでに男性であれば、真っ先に前線に送られ、その後の希望はない。徴兵制でなく志願制であればなおさら、わざわざ危険な任務に志願するのがどういう社会階層であるかは、誰もが知っている。権力や安定した職・身分を持つ者ほど戦地に赴く確率は低く、戦場からは情報と金とコネのあるものから先に逃げていくのは今までの戦争で学んだことだ。「死と隣り合わせにあるのは皆平等」というのはあまりにナイーブすぎないか。
「戦争できる普通の国」に向けて、自衛隊の海外派兵が繰り返され、9条「改正」が日程に上りそうな勢いだ。学校現場では愛国心教育が学習指導要領で具体化し、『心のノート』『からだのノート』で自ら率先して大儀のために何かをしようと心身ともに動機付けられた子どもがつくられている。教師は教員免許更新制と「日の丸・君が代」処分をちらつかされて、いかなる批判も許されない。かつて軍国少女として育ち、従軍看護婦として満州で敗戦を迎え、八路軍と一年間大陸歩くなかで日本の侵略戦争の真実を思い知り、帰国後教員となって反管理・子どもを能力や障害で分けない、を実践してきた北村小夜さん(83歳)は、現在の学校と戦前の学校がいかに似ているか、自らの体験をもって警告し続けてきた。さらに今の教育は修身や唱歌のように強制や教え込みではなく、自ら気づいて自発的にするように仕向けられている分だけ巧妙であると見抜いている。(修身教科書や歌の本と現在の関連資料を基に話された北村さんの連続講座「戦争は教室から始まる」は本にまとめられて、8月末の刊行予定です。)閉塞感がたちこめ何か超越的なものを待望する時代の気分は、両大戦間期の経済混乱や社会不安のなか、ルサンチマンを吸収してファシズムが台頭したことを嫌でも想起させる。
世の中変えるために自助努力ではなんともならないことは事実だが、かといって戦争か天変地異しかないのだろうか。一人ではだめでも、大勢が動けば政治構造を変えられることは、郵政選挙で小泉元首相の郵政組合批判に乗って多くの若者が投票し、自民党を大勝させたことがいい例証ではないのか。(規制緩和を押し進め、非正規・不安定雇用を大量に生み出した元凶が小泉改革であることを考えれば皮肉ではあるが。)
確かに今の日本では、会社(正規雇用)と家族の扶養から外れた若年世代が使える社会保障制度がない。その上、教育や住宅政策にまわす公共投資が少なく、一旦社会保障制度から外れると将来にわたって人生設計のやり直しが難しい。日本と同様若者の失業が大きな問題になっているヨーロッパでは、消費税率を上げてそれを原資にベーシックインカム(基本所得)を全ての人に保障するという議論が起きている(ゲッツ・ヴェルナー著/渡辺一男訳『ベーシック・インカム』参照。)これは議論の一例でしかないが、「失われた世代」だけでなく、誰もが安心して暮らせるための政策転換には、一人の反乱ではなく、戦争でもなく、一人ひとりが地道に現状を事実と思考で検証し、投票を含む様々な形で声を上げていくしかない。希望は一人ひとりの中にある。(猫)