編集部だより
2009年08月09日
戦争をどう伝えるか
長崎原爆投下から64年目の8月9日、テレビで長崎平和祈念式典の様子を見ていました。今年はオバマ大統領がプラハ演説のなかで、核兵器を使用した唯一の国としての道義的責任から核のない世界をめざすと明言、具体的に米露の新しい戦略核兵器削減条約の交渉開始や包括的核実験禁止条約の批准を打ち出したことから、核兵器廃絶を訴えてきた広島・長崎の声がようやく核大国に届き、核廃絶への大きな流れに向かうという期待が平和宣言の中に表れていました。
しかしその一方で、北朝鮮の核実験強行に対して、麻生首相が「北朝鮮核問題が深刻化すると、国内で核武装の声が強まる」(6月の日韓首脳会談)、「核で他国を攻撃しようという国が隣にある。それに対して、日本は、核抑止力を持つアメリカと同盟関係にあるという現実を踏まえる必要がある」(広島平和祈念式典後の記者会見)と核抑止力を肯定する発言を繰り返し、「核兵器の廃絶と恒久平和の実現に向けて、国際社会の先頭に立つ」(広島平和祈念式典での麻生首相の挨拶)べき「唯一の被爆国」の首相が、それを言っちゃあおしまいでしょ、と悲しくなります。
麻生首相、金子長崎県知事に続いて挨拶したのは、国連総会議長としては16年ぶりに式典に出席したミゲル・デストコ議長(ニカラグア)。議長は、核攻撃による瞬間的な壊滅の脅威を「抑止」と、お互いに対する恐怖を「安定」と呼ぶことをジョージ・オーウェルの『1984』のニュースピークになぞらえ、「この不誠実で偽善的な奇弁をやめなければなりません」と明言しました。カメラに映し出された麻生さんは目を閉じていましたが、この言葉がきちんと耳に(頭に)入っていたのでしょうか。
麻生さんが首相でいるのもあとわずかとはいえ、「核に対しては核を」の幼稚な応酬が外交だと思っている首相では困ります。マスコミは、麻生首相が式典の挨拶の中で「傷跡」を「ショウセキ」と読み間違えたということを面白がって報道するより、デストコ議長の痛烈な言葉をこそ広く伝えてほしいです。
ヒロシマ・ナガサキ、そして8月15日に向けて夏は戦争の特集番組・記事が多くなります。戦争を知らない世代に戦争体験の記憶や記録をきちんと伝えていくことは大切なことでしょう。でも、その日流されたTVの予告を見る限り、ここで伝えようとしているのは悲惨な被害体験であり、戦火と飢えと混乱の中を生き抜いた苦労話のようです。それはどんなに衝撃的な悲惨な映像や話で伝えられようとも、今の衣食住足りた社会に生き、戦火を知らずに育った世代(まるでテレビゲームを見るようにアフガニスタンやイラクへの空爆・市街戦をテレビやインターネットで見てきた世代)にとっては、痛みも匂いも不快感も恐怖も感じない過去のこと、にしかすぎないのではないでしょうか。
今年84歳になる北村小夜さんは、「鬼畜米英」打倒のため戦地にいる兵隊さんに、チャーチルとルーズベルトが肉挽き器の中で血を滴たらせて肉になって出てくるという勇ましい慰問の絵を描いた元軍国少女で、京城(現・ソウル)の日赤救護看護婦養成所を卒業、満州の陸軍病院で敗戦を迎え、ソ連軍の武装解除を経てなりゆきで一年ほど八路軍と共に大陸を歩き、戦後の日本に引き上げてきたという非常に稀有な体験をされています。しかし敗戦までのご自身について「旗と歌に唆され、無知の故に侵略者の役割を果たした」と言い、「人並みの苦労はした」と言う以外決して苦労話はせず、「なぜ日本人がその場(植民地や侵略していった場)にいたのかを、一人ひとり考えるべきだと思う」と言います。
北村さんの貴重な体験談は『おもちゃ箱ひっくり返した』と『戦争は教室から始まる』のなかに収録されていますので、この夏にぜひご一読いただければと思います。「戦争は教室から始まる」とは決して過去のことではなく、戦後教員として一貫して国家の教育に対する統制・強制と闘ってきた北村さんに言わせれば、「すでに今は戦前で、教室だけでなくどこでも戦争準備OK」ということです。彼女が受けた皇民化教育、とくに御国に「逆らわない心」を涵養する修身と音楽(文部省唱歌)の役割が、装いを新たに現在の「心のノート」や音楽の共通教材の中に脈々と生き続き、子どもたちはこころも体も御国に奪われている状態であることを、豊富な資料から明らかにしています。文部省唱歌については、この歌も戦意高揚の歌だったの? とびっくりすること請け合いです。
戦争体験を風化させないということは、過去の体験を聞いて涙したり、今は平和な日本でよかったと安堵することではなく、過去のプロセスを知ることで、今現在起こっていることがどのような将来につながっていくのか、自分の頭で考え、行動することではないでしょうか。情報過多の時代だからこそ、一つひとつのニュースや報道に漫然と流されず、注視していきたいと思った日でした。(猫)