編集部だより
2009年11月20日
女の手本は「オレ様」の妻にあり
京王井の頭線「駒場東大前」を降りて閑静な住宅地を歩いて行くとキラキラしたタワーが輝く東京大学先端研があります。仕事で何度か訪れたのですが、その度に入口の手前に建つ古めかしい館に興味を抱いていました。残念ながら仕事を終えその館の前を通るといつも「閉館」になってしまっているので、まだ中を覗いたことがありません。この館の名前は「日本民藝館」といいます。
行楽地のおみやげ屋さんに並んでいる「民芸品」。広辞苑(第五版/岩波書店)によると民芸とは「庶民の生活の中から生れた、郷土的な工芸。実用性と素朴な美とが愛好される」とあり、続けて「大正期、柳宗悦らの造語」とあります。意外と新しい言葉ですね。
この言葉をつくりだした「柳宗悦」は白樺派の民藝運動家で、冒頭記した日本民藝館を設立した人です。彼は"民藝=用の美"の世界を追究するべく、古市で目についた民芸品を買い漁り、朝鮮半島の陶磁器に惚れ込み、木喰仏にのめり込み、大変な蒐集家となります。蒐集品を連れての引っ越しは貨車二十数両を必要としたそうです。これはいくらなんでも多すぎますね。これらの蒐集品は民藝館に収められています。
当時は「生活品」としてさほど値の張らないものも混じっていたとはいえ、こんなに蒐集するのにはさぞお金がかかったことだろうと想像してしまいます。そのお金はいったいどこから湧いてきたのでしょう。
宗悦は大学で教鞭をとるなど収入はありましたが、それらはほとんど本や民芸品蒐集に費やされ、生活費を家に入れるような「一家の大黒柱」ではなかったようです。そんな彼と彼の民藝運動を支えていたのが、新刊『柳宗悦を支えて』(小池静子著/小社刊)の主人公、柳兼子です。
柳兼子はただの奥様ではありません。家庭を顧みず民藝運動に情熱を注ぐ夫を影日向で支え、家計を遣り繰りし、家事を切り盛りし、三人の息子を育て上げました。それだけでも只者ではないのですが、彼女は日本を代表する女性声楽家だったのです。演奏会や教職で収入を得、それで宗悦の運動を支え、家計を支えていたのです。どれほど多忙な日々だったのか想像もつきません。
彼女の声楽家としての実力は素晴らしいものでした。国内だけでなく、宗悦の関係で頻繁に訪れていた朝鮮をはじめ、当時日本人など見向きもされなかった声楽の本場ヨーロッパでも好評を博しています。
ここまで一流の声楽家ならば、付き人を何人も連れて身辺の世話など全て人任せでもおかしくないくらいですが、彼女は人手にほとんど頼らず、夫や姑、息子三人の世話もこなしているのです。大勢の宗悦のお客様をもてなし、民藝館を手伝う人々を労い、生徒にお稽古をつけ、各地でステージに立ち、戦時中には畑も耕し、幾人分もの人生を一人で背負って奔り続けます。なんというか、凄まじくエネルギッシュです。
『柳宗悦を支えて』を読んでいて不思議に思うことは、なぜこんなに我が儘な「オレ様」に尽くし続けられるのか、ということです。味噌汁をかけるわ浮気はするわ、宗悦は「明治のオトコ」で片付けられないくらい灰汁が強い方です。しぶとく宗悦を大切にし続ける兼子をすごいナーと思いつつ、そんな殿方には惚れたくないナと正直に思ってしまいます。兼子ですらつらそうだったので、私にはその妙はわかりかねます。
愛し続ける器量の深さも天下一品。柳兼子の生涯には見習うべきところが満載です。