編集部だより
2010年01月18日
もう一つの「1968」
活字離れ、出版不況が言われて久しいわが業界で、昨年最大の話題作と言えば、村上春樹さんの7年ぶりの大作『1Q84』(1・2巻、新潮社)でしょう。ジョージ・オーウェルの反ユートピア小説『1984年』をもじった近過去小説は、2巻で累計233万部のベストセラーとか。嗚呼、あやかりたい。
ダブルミリオンはともかく、もう一作、小熊英二さんの『1968』(上・下巻、新曜社)も、A5判上下で1万4千円、2千ページを超す大著であるにもかかわらず、発売4ヵ月で2万部とか。ここで取り上げられた全共闘世代の当事者を含め、同書をめぐってシンポジウムが開かれるなど、「あの時代とは何だったのか」を問うのは『1Q84』同様、一種の社会現象となりました。
小社の土台をつくってきた3人は全共闘世代よりほんの少し歳上か同年代で、1968年にはすでに現代書館で働きながら闘争学生を支援したり、自らも闘争の渦中だったようで、あの時代のことを語りだしたら一晩あっても足りないでしょう。
私自身は田舎の小学生でしたから(小熊さんより少々歳上)、東大安田講堂事件も新宿騒乱もリブもセクトも全く知らずに育ちましたが、高校に入って、制服・校則のない自由な校風は、60年代末の先輩たちによる高校闘争の遺産だったことを知りました。その後、大学でサークルの先輩から、『青春の墓標』を残して1965年に自殺した奥浩平がこのサークルにいたこと、部室に置かれた「雑記帳」に彼も書いていたことなどを聞き、赤ヘルやら白ヘル、当時の青春群像が少し身近に感じられるようになりました。加藤登紀子さんが歌った「美しき五月のパリ」でパリの五月革命を知り、それがフランスだけでなくヨーロッパ各地の大学紛争へと広がり(小社の『大学紛争の社会学』に詳しい)、ベトナム反戦運動が全米の大学・高校ストライキに広がったこと、中国の文化大革命、そしてチェコ・プラハの春と、1968年前後が世界中で若者による体制批判が吹きあれた時代だったということを、学生時代に知りました。
そのなかで、1968年の「プラハの春」に対するソ連を始めとするワルシャワ条約機構軍戦車隊のチェコ侵攻とその後の正常化体制については、「プラハの春・モスクワの冬」として有名ですが、プラハでなくソ連国内でこの軍事介入に対して抗議行動が行われたことは、ソ連でも、西側でもほとんど知られていません。
1968年8月25日の正午、モスクワ・赤の広場のローブノエ・メスト(帝政時代のツァーリの布告場・処刑場)に8人の男女が集まり、スパスカヤ塔の時計が12を打つのを合図に「自由と独立チェコスロヴァキア万歳」「あなたたちと私たちの自由のために」などと書かれたプラカードを掲げた。数分後、彼らはKГБ(国家保安委員会)に拘束され、車で連行。さらに数分後、クレムリンから黒塗りの車が2台出てきて走り去ったが、2台目の車にはプラハからモスクワに拉致され、検閲の廃止など民主化の多くを否定しソ連軍の駐留を認めるモスクワ議定書にサインをさせられたチェコスロヴァキア共産党第一書記ドプチェクが乗っていた。彼は、ここでソ連の軍事介入に抗議する勇気あるソ連人がいたことを知らず失意のうちにプラハに戻ることになる。
ロイ・メドベージェフは、『ソ連における少数意見』(岩波新書、インタビューが行われたのは1977年)のなかで、「たった5人が連帯のデモをしただけ」と言い、訳者注では「5人は裁判にかけられた人数でデモ参加者は7人」となっています。事件についても裁判についてもソ連内では一切報道されなかったため、軍事介入に抗議したラリーサ・ボゴラズなど8人のディシデント(DISSIDENT:異なる意見をもつ者)たちのことが知らされず、過小評価されてきたことはいたし方ないことかもしれません。メドベージェフは「断固たる反対や抗議も見られず、このことは異論派運動の甚だしい弱さを証言している」とさえ言っていますが、彼らは「雪どけ」後のソ連社会で醸成された新しいインテリゲンツィア(決して反体制ではなく、社会主義のソ連の中にあって、体制が強要する〈われら〉の全体主義に与することなく自らの信念や良心を信じることから出発し、言論と思考の自由を死守しようとする屹立した精神の持ち主)であり、この行動も、祖国が社会主義の危機に対する「兄弟的援助」の名の下に他国を蹂躙することに全ソ的な支持を与えているかのごこときプロパガンダに対して、「私は同意しない」と自らの信念を表明しただけで、この抗議によってソ連政府を動かす大衆運動を組織しようとか、軍事介入をどうにかできるなどというナイーブさとは無縁の人たちだったと言えます。ぺレストロイカのグラスノチ(情報公開)によってようやく、たった数人の抗議、数十人、数百人程度のディシデントたちの存在が、「社会主義の危機に対する兄弟的援助」という嘘にまみれたプロパガンダを全ソ連が支持したという恥辱からからソ連を救ったともいえるという評価に変わっていきます。
彼らの赤の広場に行くに至る道程、裁判後の人生、そしてディシデントの揺籃となった「雪どけ」後のソ連社会については、今編集している米田綱路さんの『モスクワの孤独―「雪どけ」からプーチン時代のインテリゲンツィアたち』(2月下旬刊予定)の中で始めて知りました。(一応、大学の専攻は西洋史で、ロシア近現代史が専門なんですが…。)
本書の中では上記のラリーサ・ボゴラズ、一党独裁体制のなかで検閲当局や編集者と自らのことばを守る攻防を繰り広げたイリヤ・エレンブルグ(スターリン時代の終焉を象徴することばとなった『雪どけ』の著者)、詩人であることだけでラーゲリ送りとなり亡くなったマンデリシュタームの詩とその記憶を守りとおし、自らも時代の審判者として語りだした妻ジェージダ・マンデリシュターム、ラーゲリ・流刑を経験し、サハロフの遺志をついで人権擁護活動を続ける生物理学者セルゲイ・コヴァリョフ、プーチン政権の闇を追及し暗殺されたジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤの5人を中心に、スターリン死後の「雪どけ」からプーチン時代に至るまで、屹立した精神の自由を求めた「異論派」と呼ばれる人々の人間精神の軌跡が数々の記憶・記録・軌跡を交えて織りなされています。600ページを超えるという大部な作品ですが、詩人、作家、ジャーナリスト、科学者、芸術家と、キラ星がごとくの登場人物のことばが他の人物を照らし出し、また反射し、という万華鏡のような物語でとても読みやすい作品です。原稿を頂いてから1年。昨秋、1週間、本書のゲラ持参でモスクワ、サンクトペテルブルグのディシデントの跡を辿り、夜ホテルで孤独に校正をして、やっと今春刊行にこぎつけようとしています。
あの時代とはなんだったのか、今はなきソ連という巨大なイデオロギー国家、社会主義陣営のもう一つの「1968年」、もう一つの戦後を見直す記念碑的1冊になると期待しています。(猫)