編集部だより
2010年07月13日
"セーフちゃん"増殖中
毎年、5月の連休明けに恒例のように『How to 生活保護』(以下、本書)の年度版が出ます。これは、毎年改定される生活保護基準額が3月に各福祉事務所に伝わってから、本文中にある生活保護費にかかわる数字を直し、また生活にかかわる様々な制度変更について見直す必要があるのですが、新年度スタートが多いため、実際の運用については4月以降でないと書けないという事情からです。例えば、今年度始まった高校の授業料無償化ですが、生活保護では生業扶助費の中に高等学校等就学費があります。公立高校の授業料が無償になれば、この中の授業料分の支給はなくなりますが、私立高校や高専の場合はどうなるのかとか、具体的な運用は都(本書の執筆者は東京23区の福祉事務所のため)からの通知を待たないと正確な記述ができませんでした。
本書の初版は1991年ですから、20年間も、3月末から5月連休前にかけては『How to 生活保護』の当該年度版をつくるのにあたふたしていたことになります。しかも、年度ごとの数字や関連制度の改訂にとどまらず、これまでに〔全面改定版〕(96年)、〔介護保険対応版〕(2000年)、〔自立支援対応版〕(05年)、版の名称を付けずに単に〔年度版〕とした2007〜09年、そして今年度の〔雇用不安対応版〕と5回、大規模な改訂作業をしてきました。この間、多くの読者(その多くが生活保護利用者の方)から様々なご質問・ご意見をいただき、改訂に活かさせていただきました。ご意見・リクエストをお寄せいただき、ありがとうございました。
ただし、今回2010年の改訂はただの大改訂ではありませんでした。初版の時から引き継いできた、第T部「生活保護制度の概要」の説明を、思い切ってストーリー(第U部でストーリー仕立てで生活保護の相談・申請から利用法を利用者と福祉事務所双方の側から描くというもので、ストーリーの中身は変わっていますが、初版以来スタイルは堅持してきました)で理解できるようにしようとしたのです。20年間の蓄積の賜物ともいうべきこの概要部分は、複雑な生活保護制度をコンパクトに説明し、他法・他施策との関連をうまくまとめている点で完成度が高く、大学や専門学校のテキストにも採用されていましたので、これをなくすというのはまさに蛮勇が必要でした。それでも、教科書的な説明より、制度利用の方法をストーリーで導入したほうが利用者の立場から見たらわかりやすいのではないか、と長年の蓄積に安住することなく新たな構成に挑戦したわけです。
制度概要の中身をストーリー仕立てで理解してもらうよう構成し直すことが、いかに難しいことだったかは、やり始めてすぐに気付きました。最初にストーリー(上段)のプロット(粗筋)を立て、下段に今までの概要説明から必要な項目を抜き出してストーリーに合うように配置していくのですが、配分がうまくいきません。当然、最初のほうに制度の基本的な説明を入れていきますから、最初のうちは下段がびっちり埋まり、後半に空きが目立ちます。その上、全員でストーリーを作成しましたから、執筆者個々のこだわりがぶつかり合い、なかなか話が進まないのです。例えば、「扶養義務者への扶養照会」は、教科書的には「扶養義務履行は生活保護に優先するが、相手に資力がないのに強制するものではない」という説明になります。しかし家族・親族に扶養照会されることへの不安からなかなか申請に踏み切れない方も多く、申請抑制に使われている実態もありますから、扶養照会への対応をどう説明するか議論する過程でストーリーが二転三転。そんな議論が随所で繰り広げられ、2年がかりでようやく本書のストーリーに落ち着きました。ストーリーの中の何気ないつぶやきや福祉事務所職員の言葉、一つひとつのエピソードすべてが、現実の福祉事務所や医療機関の福祉相談室、就労支援の現場で執筆者たちが実際に経験したことであり、本書の真価はまさに執筆者がこだわり続けたその細部に宿っているのです。
この思い切った大改訂に合わせ、装幀もガラッと変えました。こちらは2度目の本格的変更で、デザイナーは初版以来同じ尾形まどかさん。雪だるまに足が生えたような、不思議な大小の白い生命体が、コロボックルのように葉っぱで雨をしのいでいるその横で白猫が天を仰いでいる、というイラスト。かわいいのに圧倒的なインパクトがあって、カバーラフは2種類送っていただきましたが、個人的には即決でこちらでした。最終的に、雨空の向こうに虹を描き加えていただき今のカバーになりました。リストラで子会社出向、子会社もつぶれて雇用保険で食いつなぐが、仕事がみつからないまま雇用保険切れで、アルバイト生活。一昨年のリーマンショックのなか、アルバイトの職も失いいよいよアパート代が払えなくなって福祉事務所へ…。「健康で文化的な最低限度の生活保障」という小さな傘(生活保護)でなんとか雨をしのいで落ち着いた生活を取り戻し、何十社応募しても年齢からどこもダメ、という雇用破壊状況を就労支援策で乗り越え、なんとかパートの仕事を見つける、という本書ストーリーの主人公(55歳)を象徴するようなイラストです。
本書が平積みになっている書店さんでは、小社の営業部が作ったポップを目にすることもあるかもしれません。生みの親の尾形さん曰く「正体不明の生き物」&白猫のイラストを使わせていただいています。尾形さんと相談して、この「正体不明の生き物」に「生活保護=最後のセーフティネット」の意味を込めて「セーフちゃん」と命名し、セーフちゃん増殖計画を練っています。
生活保護を利用しなくても、働ける人は働いて生活できたほうがいいのでしょう。しかし、どんなに働く意思があっても、現実の経済・雇用状況では一度正規職を失うと生活保護基準以上(ストーリーの主人公の場合、55歳、一人暮らし、アパート代基準額込みで14万円弱)の手取額を稼ぐのは簡単ではありませんし、医療費を考えればなおさらです。アルバイトやパートのダブルワーク・トリプルワークをしても、非正規で年金未加入、医療保険・雇用保険にも入れてもらえず、将来にリスクをかかえたまま身体が続く限り働くしかない「ワーキングプア」層が拡大しています。
反貧困ネットワークは貧困はみえないものであってはならないもの、ということから、貧困を象徴するおばけの"ヒンキー"を作り出し、ヒンキー撲滅キャンペーンを繰り広げています。ならば、最後のセーフティネット=生活保護のキャラクター"セーフちゃん"を増殖させ、本当に必要な人が生活保護を利用できるような制度運営になってほしいと考えました。
生活保護はスティグマを貼られ、できれば受けたくない、ベーシックインカムのようにもっと普遍的な基本所得にしてほしいという意見もあります。社会保障制度全体の見直しの中で、生活保護のあり方、運用についてももっと議論すべきなのでしょう。ただし、今の制度の中でもきちんと法律どおり運用されてないのですから(本書ではそうした実施機関側の問題に対しても、福祉事務所の現場の中から具体的に対処法を提案しています、これが本書の特長です)、"セーフちゃん"はもっともっと増殖していかなければなりません。(黒猫)