編集部だより
2010年11月29日
本・人・人生――『モスクワの孤独』サントリー学芸賞受賞に寄せて
すでにトップページでもお知らせしていますように、3月に刊行されました米田綱路さんの『モスクワの孤独――「雪どけ」からプーチン時代のインテリゲンツィア』が、第32回サントリー学芸賞(社会・風俗部門)を受賞いたしました。サントリー文化財団のプレスリリースによりますと、サントリー学芸賞は「広く社会と文化を考える、独創的で優れた研究、評論活動をされた方を顕彰している」賞であり、その意味では、本書は米田さん初の単著でありながら、賞にふさわしい労作・思索の結晶であると自信をもって申し上げられます。選考してくださった選考委員の方々、サントリー文化財団に深く感謝申し上げます。
2008年から09年の年末年始の4日間、米田さんから頂いた原稿(66.5万字!)を実家の炬燵で読んだときの興奮は今でも忘れられません。本書で取り上げられているエレンブルグ、マンデリシュタームの妻・ナジェージダ、ラリーサ・ボゴラズ、セルゲイ・コヴァリョフ、アンナ・ポリトコフスカヤの6人をめぐる、パステルナーク、ツベターエワ、アフマートヴァ、ブロツキー、チュコフスキー、オクジャワ、サハロフ、ソルジェニーツィン、フルシチョフ・ゴルバチョフ……旧ソ連・ロシアの錚々たる、綺羅星がごとき詩人・作家・音楽家・芸術家・政治家・知識人たちが登場し、互いが互いを反射して映し出す万華鏡のような物語がテンポよく紡がれていて、寝るのも惜しんで読みとおしました。
結局1年以上かかって本になったわけですが、ゲラで二度三度と読むうちに、ここで描かれている少数派知識人たちの屹立した精神世界というのは、日本では、そして石油・天然ガスバブルで消費熱に浮いた今のロシアでも、理解されにくいだろうなあ、とも思い始めました。
60年代のソヴィエト映画を代表するフツィエフ監督の『私は20歳(はたち)』(原題:Застава Илича=イリイッチの哨所)は、革命後の動乱と大祖国戦争を通り抜けた親世代と「雪どけ」世代の子の世代間の軋轢を描いた青春映画ですが、その中に、技術工科大学で催された「詩人の夕べ」のドキュメンタリーフィルムが使われています。そこには、ロシア文化における詩人の特別な地位、詩に対するロシア人の崇拝・熱狂が映し出されていています(これが西側だったら、プレスリーやビートルズ、ローリング・ストーンズなのでしょうけれど)。しかも学生、文化人だけでなく、子どもからお年寄りまで自然と詩が口をついて出てくるのはロシアならではのこと。詩に対するロシア社会のこうした態度がなければ、『モスクワの孤独』の「第U部 ナジェージダ・マンデリシュターム」(詩人であることだけでラーゲリに送られ亡くなったマンデリシュタームの寡婦・ナジェージダが、夫の詩と記憶を守るために闘い、その中で自身が時代の「審判者」のように周囲の知識人をなで斬りにし、激しい反発を買う)の部は存在しえなかったでしょう。
賞の選評で選者を代表して、袴田茂樹先生(青山学院大学教授、ソ連・ロシア研究)が「60年代から70年代のソ連に留学していた評者にとって、ソ連での最大のカルチャークは、知識人たちの精神世界の凄さであった。(中略)この精神世界こそが、ソ連の反体制知識人たちの運動や発言のバックボーンでもあった。(中略)このソ連の知識人世界の雰囲気は、ロシア研究者やロシアに関心をもっている人たちに対しても、最も伝えにくいことだと日頃痛感していた。詩とか芸術、文化の問題を、当時のソ連知識人のような感覚でとらえることのできる者は、わが国にはほとんどいないからだ。ソ連の異論派とか反体制と言われた知識人について書いた本や論文はわが国でも沢山出たが、そのほとんどは、ロシア知識人のこの精神世界を理解していなかった。本書を初めて読んだとき、まさに私が伝えたいと思っていた世界を丹念にフォローしていると感じた。」と本書の真価を的確に評してくださいました。
米田さん自身は、この時代(「雪どけ」からプーチン時代)の旧ソ連・ロシアを直に体験されているわけではありません。その代わり、ここで論じられている人々が遺した著作、彼らに関する膨大な作品を丹念に読み込み、そこに宿る精神・メッセージを媒介者として現代の日本の読者に伝えるために、旧ソ連・ロシアの知識人が歩んだ軌跡、彼らが生きた社会の時代精神を再構成して提示してくださっています。米田さんの「受賞のことば」にありますように、本書はまさに「本を生み出すという人文的叡智」をベースにした本であり、米田さんが書評という仕事の中で培ってきた「本を通して社会を見る習慣」によって、時代も異なる社会背景も貫いて生み出された豊穣な世界です。
本書が出てからのエピソードを一つ。
第W部で描かれているアンナ・ポリトコフスカヤ(『ノーバヤ・ガゼータ』記者でプーチン政権の闇を追及している最中に、2006年暗殺された)の後輩記者で、彼女の遺志をついでチェチェン報道を続けているエレーナ・ミラシナ記者が、ヒューマン・ライツ・ウォッチ東京の招待で4月に来日、明治大学で講演され、お会いすることができました。ポリトコフスカヤの写真を『モスクワの孤独』の中で使わせていただくためにメールで『ノーバヤ・ガゼータ』編集長に連絡し、使用許諾を頂いていましたので、本を直接手渡してお礼申し上げたかったのです。(電子書籍でしたら、ネット通してダウンロードしていただくだけですむのでしょうが、何とも味気ない世界になっていきそうです。)
ミラシナ記者は、(日本でいう)中学生の頃ペレストロイカの真っ只中で、グラスノスチ(情報公開、言論の自由)がいかに社会を変えていくかワクワクする思いで見てきて、ジャーナリストになりたいとモスクワ大学ジャーナリスト学科に学び、『ノーバヤ・ガゼータ』の記者になったといいます。ポリトコフスカヤの死後も、報道管制が敷かれ、残虐行為が続いているチェチェンに入って、命がけで現地の人の声を伝える取材を続けてきました。
ロシアではすでに、ポリトコフスカヤを含みジャーナリストが14人殺されています。ミラシナ記者にも「チェチェン報道から手を引け」という強迫があるそうです。「強迫され、命の危険を冒してまで、なぜ取材を続けられるのか。その勇気はどこからくるのか」という参加者からの質問に、「私は格段勇気があるわけではない。ただ、私が恐れてチェチェンのことを書かなくなったら、ジャーナリストとしての私は殺されたのと同じことで、それでは権力の思うとおりになってしまう。だから私は取材し、書き続けている」と穏やかにおっしゃいました。むしろ、今チェチェンに入って辛いのは、「かつてはロシアによる間接統治で、治安部隊も民警もロシアから派遣されたよそ者だったから、誰が誰と通じているかという事情に疎く、人々はどんなに酷い行為が行われたかを語ってくれた。しかし、カディロフ政権になってからは“チェチェンによるチェチェン統治”といわれるように、現地人が治安機能を引き受けるようになり、何かしゃべったら筒抜けになりかねず、ロシア人に語ってくれる人はいなくなってきた」ことだと言います。
チェチェンへの残虐な統治に対するロシア人の無関心、メディアが国家に統制され、政治社会への健全なチェック機能を失っているにもかかわらず、オイルマネーによる経済発展・生活の安定を望んでプーチンの強権的政治を歓迎する今の大勢のロシア人のなかで無力感を感じていたが、こんなに離れた日本で、ロシアの人権侵害、チェチェン問題に関心を寄せてくださる人がたくさんいることを知り、本当に心強いとおっしゃっていました。
講演の後、ポリトコフスカヤやボゴラズの写真が掲載された本書を手渡すと、「(ロシアでもほとんど知られていない)ボゴラズのことを、日本でこんなに(260ページも)書いてくださるとは」と驚き、喜んでくださいました。ちなみに、ボゴラズはヒューマン・ライツ・ウォッチの前身である「ヘルシンキ・ウォッチ・グループ」(「移動の自由」を盛り込んだ1975年の欧州安全保障協力会議最終合意「ヘルシンキ合意」を期に創設された、ソ連の人権状況改善履行を監視するグループ)のモスクワ代表をしていたことがあります。ミラシナ記者は日本語を読めませんが、1冊の本が時空を超えて人と人との人生を結びつけることもあります。そんな本を世に出す一端に携われたことを本当に幸せに思います。
さて、今米田さんは本書の姉妹編として、20世紀ドイツとロシアのはざまを生きた知識人たちの精神史的系譜をたどる本を執筆中です。早く原稿を読みたいと願っていますが、なんとこの夏、チェコに行って本を仕入れてきたとのこと。「偉大な先人たちの貴重な記録ですから、やはり敬意を表して原語で読まなければ」といまチェコ語の本と格闘中とか。
ネットで検索すればピンポイントで知りたい情報が得られる(その情報の質や得られる範囲はともかく)というご時世に、オリジナルに当たるところから始めるというのはなんとも間尺に合わないように思える行程です。しかし、その格闘のなかからしか、記録を残した人の思索・思念、そしてその時代精神というものは掴み取れないのではないかと、それが本読みの醍醐味なのだと、活字の本が消えていくといわれる時代だからこそ強く思うのです。(猫)