編集部だより
2011年03月09日
「私たちが死んだとき、世界は沈黙していた」
チュニジア・エジプト・リビア……TV・新聞、そしてネット上で、北アフリカから中東アラブ社会に広がる独裁体制への市民蜂起について大きく伝えられている。独裁政権のドミノ倒しはどこまで広がるのか。しかし、日本の私たちとって石油の値段は気がかりでも、ほとんどの人は遠いアフリカ・中東で起きていることへの関心は薄いだろう。中東から中央アジア、中国あたりまでドミノ倒しが到達しない限りは。
年末にチュニジアでベン=アリ前大統領退陣要求デモが始まった頃、カプシチンスキイ著『黒檀』(池澤夏樹=個人編集「世界文学全集」第3集、河出書房新社)を読み始めた。「世界で最も偉大な報道記者」とも言われた著者が、通信社特派員、新聞・雑誌記者として40年に及ぶアフリカ取材を基に書いたルポルタージュで、アフリカのことをほとんど知らない私にとって、アフリカを見る視野を広げてくれた作品だった。
2月8日に東京堂書店で行われた池澤夏樹さんと米田綱路さんによる「『モスクワの孤独』サントリー学芸賞受賞記念トークイベント」の準備で池澤さんとやりとりしていた際、カプシチンスキイの前著『帝国 ロシア・辺境への旅』における彼のポーランド人としてのロシアへの視線と、『黒檀』におけるヨーロッパ人としてのアフリカへの視線・スタンスが違うところが興味深かった、というメールを池澤さんにお送りした。すると、「『黒檀』を読んだなら、『文藝』春号に掲載されるチママンダ・アディーチェさんとの対談を読んで、それから彼女の『半分のぼった黄色い太陽』(河出書房新社)を読んでください。全部つながっています」という示唆をいただいた。
それからイベント当日まで『半分のぼった黄色い太陽』に読みふけった。独立後のナイジェリアで起きた、1967から70年までの南部ビアフラの独立戦争(と言うにはあまりにもビアフラ側の体制も装備も貧しく、ナイジェリア政府軍に制圧されていく中での日常生活が、恋愛や家族、田舎と都会、貧富の差、石油利権などの問題を織り交ぜて描かれる)に対して、世界がいかに沈黙してきたのかが3人のストーリーテーラーの目で綴られていく。そのうちの一人、ナイジェリアのイボ族の古代文化に惹かれて住み着いた英国人リチャードが書き溜めた作品のタイトルが「私たちが死んだとき、世界は沈黙していた」だ。二百万人ともいわれる犠牲者を出しながら、アフリカの「小さな参事」が世界に伝わることはなかった。ソ連軍(ワルシャワ条約機構軍)によるチェコ侵攻が起き、ベトナム戦争が激化し、キング牧師暗殺・ケネディ大統領暗殺のニュースが大きく伝えられていた頃だ。
池澤さんの言われた「全部つながっています」がどうつながっていたのかは、米田さんとのトークイベントの中で語られたが、書き手のスタンス(位置取り)について、カプシチンスキイが誰に向かって書いているかを鋭く突いたアディーチェの言葉が印象的だった。
ビアフラ戦争の時代、情報を伝えていたのは主に口コミ、新聞(活字)、ラジオだった。80年代末から90年代、ベルリンの壁崩壊からソ連崩壊という一連の冷戦構造の終焉を準備し、伝えたのはテレビの映像の力だった。そして2010年代、北アフリカで続いた政変が「ネット革命」と言われるように、マスメディアによる一方向報道から、「ソーシャルメディア」と総称されるインターネットによる不特定多数者同士の情報交換へと変わったことを示している。流血の映像や生の声がそのまま同時に交換されるこの新しいメディアは、言語より感情を伝え合い、大きなうねりとなって旧政権をなぎ倒す原動力となった。
「そのダイナミズムを前にして、後付けの『分析』しかできない旧メディアはあまりに無力だ」と東浩紀氏は朝日新聞の「論壇時評」(2011年2月24日)で書かれている。確かに、まさに今起きている事のさ中においてはそうなのだろう。ただ、リビアのように事態が長期化してくると、すでにネット上に生まれた高揚した共同幻想は過ぎ去り、正確な情報を整理・分析し、今後を予測し対応を図るための冷静な考察こそが重要になってくるだろう。それこそ組織力のあるマスメディアに「後付けの分析」が求められるのだ。第一、ネット上にどれほど北アフリカで起きていることを伝える情報が飛び交っていても、読めなければないのと同じであり、そうであればなおさら、マスメディアが誰のどんな言葉をひろって紹介するのか、そのスタンスが問われてくる。
北アフリカの反政府蜂起から自身の仕事の話に飛躍して恐縮ですが、もうすぐ『季刊福祉労働』130号「特集 地域で共に学び・生きる運動は」が発売になります(3月25日刊)。1979年の養護学校義務化から32年がたち、義務化に反対し、障害があってもなくても地域の学校で共に学び・生きることをめざしてきた障害当事者や親、教育・保育・保健関係者、地域住民の運動がいまどうなっているのか、という特集です。なぜこの時期に義務化以降を振り返るのかと言えば、今まさに、日本の障害者制度を抜本的に改革し、障害者権利条約を批准するための法制度整備を目的に、2009年末に発足した障がい者制度改革推進会議(以下、推進会議)の意見書を受け、障害者基本法(障基法)改正案を策定中だからです。
以前も「編集部便り」で紹介しましたが、推進会議は民主党政権発足によってはじめて実現した当事者主体の政策審議機関であり、推進機関です。その推進会議が障基法改正のためにまとめた意見が、各省庁とのすり合わせの結果出された改正案ではほとんど無視、あるいは骨抜きにされてしまいました。その経緯に関しては本誌130号で論じられていますので、そちらをご覧いただくとして、教育に関してのみ言えば、現行の分離別学体制から障害があってもなくても原則地域の学校で共に学ぶインクルーシブな教育制度への転換、という推進会議の意見に対してはゼロ回答でした。
その理由として、文科省は、「急な制度転換は、現場が混乱する」「負担が増えるとして市町村が反対している(現行法では、特別支援学校は基本的に都道府県立、障害のある子が地域の学校に入るとなると施設整備や教員、介助員などの負担は市町村になる)」を挙げています。しかし、130号の特集にあるように、義務化以降も、地域の学校で共に学ぶ教育実践は各地でありましたし、独自予算で障害のある子への合理的配慮をする自治体もありました。分ける制度ゆえに、「障害のある子はここ(普通学級)にいるべきではない」「教師の負担が増える」「授業の邪魔になる」という排除の論理が大手を振ってまかり通るなか、それでも「外国に比べて日本は障害のある子、かつ重度の子が、普通学級で学んでいる率は高い」と文科省も認めざるを得ない実態は、当事者、親、教員、支える地域のグループの努力が創り出してきたものです。この32年間、インクルーシブな教育制度を追求する内外の動きを無視し(統合教育を原則とする国連の規則策定の動きやインクルーシブ教育を宣言したユネスコの会議の情報を国民には秘匿し続け)、制度転換を阻んできたのは文科省自身です。
推進会議メンバーはもちろん、障害当事者団体、日弁連や人権擁護団体、そして全国の様々な障害者の権利や自立生活を進める組織、共に学ぶことをめざすグループが、推進会議の意見を無視するなと声を上げていますが、こうした声がマスメディアに載ることはありません。
障害者が障害のない人と同じ権利を有して、地域社会で分け隔てられることなく学び・働き・暮らすインクルーシブな社会に変えるための障基法に改正するということは、障害のある人ではなく、障害のないマジョリティの側がどう対応し、社会を創り直していくかを問われるわけですから、すべての人の日常生活にかかわることなのですが、この関心のなさは何なのだろうと考えさせられます。一昨年の障害者自立支援法に反対する集会については、航空写真入りで大きく報道していましたが、少ない年金や作業所の工賃から、生活するため・生きるための介助費用や施設利用料の1割を原則自己負担するのはおかしい、という訴えは、マスコミにもわかりやすく響いたのでしょう。しかし、障害のある人が地域で暮らす権利や地域の学校で学べるように制度や環境整備を権利として要求するのは、「行き過ぎ」とまで言わなくても、「なんでそこまでする必要があるの?」「特別に障害に配慮した学校・施設があるじゃない」というところなのでしょうか。
『福祉労働』は季刊誌である以上、速報性も同時性も端から望めません。しかし、継続的な基本スタンスをとり続けてきたことで蓄積された情報を次の世代に伝え、障害当事者とかかわる人々を結びつける有機的・主体的なネットワークを形成し、オピニオン形成・政策提案の場となるという役割はネット時代においても変わりません。少数者である障害者の制度改革がその第一弾からつぶされようとしているとき、世間が沈黙したままでいてはならない、と『福祉労働』は訴えています。(猫)