民主党の野田元首相がTPP交渉参加の方針を表明してから約2年半、政権は自民党にかわったものの、その不穏な動きはついにTPP交渉参加にいたるところまできています。
食の安全は保たれるのか? そして、これからの農業に本当に必要となることは何なのか?
その疑問を解決してもらうべく、この度、小社刊行
『農業に正義あり』[定価2300円+税)の著者でもいらっしゃる農業ジャーナリストの石堂徹生氏にお話を伺いました。
Q. 7月にTPP交渉に参加することになりましたが、農業に従事されている方はどのような思いでいらっしゃるのでしょうか。
A. 農業団体は、先の選挙でTPP推進の民主党を見限って自民党を勝たせましたが、政権獲得後、自民党は見事にそれを裏切りました。農家の方は地団太を踏む思いでしょう。
次の参議院選挙で、農業団体は自民党に対し、踏み絵を迫る腹です。しかし、状況は不利です。バブル懸念の日銀コントロール作戦+円安・株高誘導で企業・富裕層を取り込み、中間層にも幻想を与えつつある安倍政権は、前回に比べて農家層への依存度が低くなっています。
それに安倍政権は、TPPに参加しても、コメの一部輸入自由化を認めたウルグアイ・ラウンドでの補助金6兆円バラまきと同様に、農家に対し、消費税増税などを財源とする経済的恩恵を与えれば、最後は大人しくなると踏んでいます。
しかし、一度の裏切りは二度、三度あるのが世の習いです。それにアベノミクスがコケて財政危機に堕ちれば、選挙票と補助金を交換し合う、一種の“レントシーキング”(自己利益を得るための活動)は事実上、破綻に追い込まれかねません。
そのような見通しを立てた上で、農家・農業団体は安易な政治依存から脱し、自立の道を切り開く“新しい農業戦略”と覚悟が必要ではないでしょうか。
Q. 交渉参加したほうが、ブランド力のある日本の米や野菜は勝てる、まじめに農業をしているところは参加したほうがメリットが生まれると言う方もいると聞きます。
A. 確かに日本のブランド力のある農産物の輸出は、“新しい農業戦略”の1つといって良いでしょう。また、補助金頼みの農業の現状に対する批判から、たとえTPPに参加しても海外の農産物に勝てる、十分に迎え撃つことができると考える農家もいるようです。
しかし、現在、そのブランド力の世界的な価値は極めて限定的であり、過信してはなりません。手先が器用で、まじめにコツコツと工夫・努力するのは、何も日本人の専売特許ではなく、特に朝鮮半島や中国などの“東アジア人”の共通性ではないでしょうか。
つまり、日本の農産物の優位性も絶対的ではなく、かなりの程度、真似をされてしまいます。それを避けるためには、日本農業の本来の姿をベースにした、独自性を追求することにつながる“技術革新”の継続が必要です。
この点については、最後に触れます。
Q. そもそも、農家の高齢化や後継者不足など、国内農業が抱える問題は解決されないままです。
ただ、都市や地方にかかわらず、若者のなかには就農希望者も少からずいます。その方たちにメッセージをお願いいたします。
A. 物事を一面的に、それも断定的に見ていたのでは、正しい答えは得られません。例えば、昔の農業は生産性が低く、重い年貢・税を課せられて農家は貧しいと考えられてきました。
それが、いわゆる貧農史観です。
確かに小作などのように貧農も存在しましたが、江戸時代の本百姓や明治時代以降の自作農は農業生産の向上に多大な貢献をし、特に幕末・明治初期の日本の農業の生産性は米国を凌ぎました(拙著『農業に正義あり』p95、99、141)。
その結果、コメなどがたくさん収穫できて、この狭い国土で現在1億人を超える人口を抱えることができました。本百姓や自作農の暮らしは程度の差こそあれ、貧しくはありません。
現代の「農家の高齢化」も、必ずしも“問題”ではありません。日本全体の高齢化が進み、年金・介護・医療財政が厳しくなる中で、高齢化した農家は農業生産という形で、社会的財の形成に貢献しています。これだけたくさんの高齢者を擁する産業は他に存在しません。
「後継者不足」は日本が食料の6割を輸入し、自給率が4割と低いために、経営として自立できない農家が多いことを示しています。また「耕作放棄地の増加」も顕著です。
ただ、これを日本農業のマイナスを表す目安だと考えるだけでは、何の進展もありません。だとしても、どんな逆転のシナリオがあり得るのでしょうか。
現代とは基本的に定義が異なりますが、わかりやすく言えば、江戸時代の農地の所有者は幕府で、それが各大名に貸与され、さらに村落単位で再貸与され、最終的に本百姓に再々貸与されました。
年貢納入の義務を負うのは集落で、年貢は農地面積の多少に応じて、各本百姓に割り当てられました。だから悪性伝染病の蔓延や戦乱によって、一家全滅する農家が出れば、残された農家がその割り当てられた年貢を負担しなければならないために大変です。
そこで、そのような場合、村落内で農地を持たない農家などに小作させたり、あるいは他村落の農家などに“農地・宅地セット付きの定住利用権”を売るなどしました(拙著p46〜47)。
その現代版を考えてみるのも1つの方向です。つまり、後継者が存在しない、あるいはそれどころか、耕作者がいないために耕作放棄せざるを得ない農家、非農家などから“農地・宅地セット付きの定住利用権”を買ったり、借りたりするということです。
この方式が村落や市町村、農協などのバックアップなどによって定着すれば、都市か地方かにかかわらず、他産業従事者や非農家の若者、定年リタイア組などの就農のチャンスが増えることになります。
その若者などの就農希望者に、ぜひお伝えしておきたいことがあります。それは、先に「この点については、最後に触れます」と書いた「“技術革新”の継続の必要性」についてです。
農業の“技術革新”というと、何か奇異な感じを抱かれるかもしれませんが、もしもコメづくりで“技術革新”がなければ、狭い国土で1億人もの人口を抱えることは不可能だったでしょう。
こういうことです。日本の中世(鎌倉〜安土桃山時代)のコメづくりを担っていたのは、名主(みょうしゅ)や親方などと呼ばれる富農層です。
彼らは名子(なご)や被官(被官)と呼ばれる多くの住み込み労働者を使い、10〜20ヘクタールの水田で大規模経営(現在の農家平均所有面積の10〜20 倍)をしていました。それも“浅く耕す”農具として牛馬にひかせる犂(鋤)を使っていたのです。
ところが、一方で、革命的ともいえる、おもしろい現象が起きていました。名主からわずかな農地を貸与された名子が、本来は作物の生育中、空気の通りを良くする目的で周囲の土を“浅く耕す”ための鍬(くわ)を使って“深く耕し”、里山の下草などをたっぷりと施して地力を高め、名主の犂による大規模経営よりも、高い生産力(単位面積当たりの収量)をあげるようになりました。
そのため名主は水田経営をやめて名子にもっぱら小作をさせ、自ら寄生地主化していきました。ところが年貢を取りたてる領主にとって、寄生地主は不要な存在です。そこで豊臣秀吉は太閤検地(年貢取りたてのための土地の測量調査)を行う際、名主を排除して名子を年貢納入者にしたのです。
これを機に名子は自分の農地を保有することになり、江戸時代には日本農業の主たる担い手の本百姓に転じ、国富を生み、“人口爆発”(戦国時代末期の人口約800万人から百数十年後の江戸時代初めにかけて同3000万人に増加)を支えました。
これは犂から鍬への農業技術的転換が、領主による名主排除・名子把握=本百姓登場という、大きな社会的・経済的な変化を生み出したという意味で、まさにヨーゼフ・アロイス・シュンペーターが指摘する技術革新の先駆けです(拙著p108〜109)。
新規就農を目指される皆さんには、この輝ける技術革新の伝統を受け継ぎながら、有機無農薬栽培をベースにして家畜を飼う、奥の深い「有畜複合経営」(拙著p231〜232)の発展に尽力してほしいと思います。