1970年代生まれの私が「スーパーマン」と初めて出会ったのは、1978年から公開された映画シリーズがテレビで放映されたときだっただろうと思う。スーパーマンはとにかく弱きものを助け、強きものに制裁を加える、かっこいいヒーローだった。助けを乞う人がいたら、迷わずすっ飛んでいく。普段は冴えないダメな男が、公衆電話ボックスの中や、(たしか)回転ドアを使ってグルグルと回り、あの青い全身タイツに赤のパンツとブーツ、そして風にたなびくマント、胸に大きく書かれた「S」のコスチュームを身に着けた「スーパーマン」へと変身し、またたく間に悪の手から人々を救出するのだ。
とにかく見ていて爽快、胸のすく思いがする映画だった。
しかし、この2013年夏に日本で公開された映画『マン・オブ・スティール』は、今まで私が持っていたスーパーマン像とまったく違っていた。スーパーマン(超人)が自分の存在に悩んでいるのだ。超人的な力の使い方がわからず、子どものときには友だちにいじめられたらやり返すなど不用意に力を使ってしまったことで人から恐れられ、そのために肝心なところで養父の命を救うこともできず、ただひたすら周囲の目に怯えながら過ごしていた姿が、長い時間を割いて描かれている。
この映画だけを見ていたとしたら、なんてモヤモヤする映画なんだろうと思っただろう。
しかし、映画の封切り前に、
『スーパーマン――真実と正義、そして星条旗と共に生きた75年』(ラリー・タイ 著/久美 薫 訳、4200円、小社刊)の編集担当をしていたので、なぜ、スーパーマンが悩める存在となってしまったのか、私なりに理解することができた。
一つは商業的な理由として、最近のヒーローは、悩める庶民派が人気だからということ。これは、「スーパーマン」の版元であるDCコミックと並ぶアメコミ出版社、マーベル・コミックから生まれた「スパイダーマン」を意識してのことだろうと考えられる。
もう一つは、アメリカという国そのものが混迷の時代に突入しているからだとも考えられる。それを見事に論じてくださったのが、慶應大学教授の渡辺靖氏による前掲書についての朝日新聞の書評である。
「いみじくも昨今のシリア情勢をめぐり、オバマ大統領は『米国は世界の警察官ではない』と明言する一方、必要とあれば軍事介入を厭わない『例外的な存在』でもあるとも述べ、やはり国内での賛否の声が相次いだ。
オバマ氏自身を含め、米国の自己認識が大きく揺らいでいる近年の状況をスーパーマンはとうにお見通しだったのか」
経済・軍事面で強い力を見せつけてきたアメリカが、近年の9.11やリーマン・ショックなどを経てさらに、その持続性と正義性に疑問を持ち、自己矛盾と自己破綻への歩みを始めているのだとも見える。
映画『マン・オブ・スティール』の中で、繰り返し出てきた「S」の意味。これがただの「SUPERMAN」の頭文字ではなく、ある言葉の象徴として使われている。それは「真実」でも「正義」でもなく、今のアメリカ社会が真に必要としているものだということが、このアメリカを体現し続けてきたヒーロー「スーパーマン」をとおして表現されているような気がしてならなかった。
アメリカの人々が自国と世界をどのように見ているか、今後も「スーパーマン」から教えられることは多いように思える。そして、スーパーマンがこの世に生まれた1938年の頃のように、ただひたすらに弱きものを助けるヒーローが、アメリカの人々にとって必要になってきているのではないかと思う。