編集部だより
2014年11月06日
いま、なぜ戦前史なのか
「日本はいま、曲がり角を迎えている」という言葉や、「また戦前のような危険な時代になりつつある」という言葉を聞いて、どう思われるでしょうか? このフレーズに既視感を感じる方も多いでしょう。「そのセリフはあっちこっちで以前からよく聞いている」「もう飽きた」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに最近、多用されている言葉の一つかもしれません。
しかし、「そのセリフは聞き飽きた」という感覚の麻痺が、いま多様な危機の前でわたしたちの思考を鈍くしているのではないでしょうか?
原発再稼働問題やTPP問題、特定秘密保護法や集団的自衛権の閣議決定など、目の前にある危機の中で、小社では今年、あえて少し遠回りをして、〈戦前を見つめる〉というテーマを考えててきました。
わたしたちは「戦前史」を、昭和のファシズム期にだけに限定せず、明治維新後、近代的な統一国家として大日本国憲法をもってからの歴史を「戦前」という枠で巨視的に考え、その足取りに込められた希望や破綻、誤りや修正の歴史を学び、この国の可能性と挑むべき課題を可視化したいと思いました。
『「朝敵」と呼ばれようとも――維新に抗した殉国の志士』(星亮一 編)、『東芝の祖 からくり儀右衛門――日本の発明王 田中久重伝』、(林 洋海 著)、『南太平洋の剛腕投手――日系ミクロネシア人の波瀾万丈』(近藤節夫 著)、『いま語らねばならない戦前史の真相』(孫崎享・鈴木邦男)、など今年出版しました小社の本は一見、バラバラの分野の本に見えますが、実はわたしたちの戦前の歩みを多角的に捉えようと望んだ路線で出会った作品たちでした。
戦前には国内対立も不和もありました。明治政府に抗した日本人も、起業でこの国を豊かにしようと志を立てた青年もいました。また、中国大陸ばかりでなく太平洋の島々に乗り出した若者も多くいました。そんな交流と出会いの中で刻んできた〈戦前という体験〉が、わたしたちの心の芯にまだ余熱をもって眠っています。そんな「種火」を大火事にせず、温かい家庭を守るともしびにするには、今こそ、その歴史への知性が求められていると思います。
わたしたちは、その願いも込めて、この秋、『農本主義が未来を耕す――自然に生きる人間の原理』(宇根豊 著)という書籍を出版することができました。戦前のファシズムの一形態と思われてきた農本主義という思考にも、未完の可能性はまだ眠っているかもしれません。
目の前に喫緊の危機が迫るときだからこそ、歴史を学ぶ意義を再確認したいと願っています。