編集部だより
2015年06月15日
いま甦る「マハ・ラバ(大いなる叫び)」
また一人、障害者が親に殺された。知的障害のある40代女性が、自分が亡くなった後不憫だからと60代の母親に殺されたのだ。入所施設(自体を善しとはしないが)もデイサービスもホームヘルプやガイドヘルプもなかった時代ならいざ知らず、親が元気なうち、というより小さい時から地域で共に育ち、地域の学校で共に学び、いろいろな支援やサービスを使いながら地域で生活する関係をつくっていたら、親だけで抱え込み、親亡き後を案じてわが子に手をかける悲劇は避けられたのではないか、そのために制度やサービスを整えてきたのではなかったか、と残念でならない。
施設や福祉サービスがない時代ならいざ知らず……と書いたが、実際60年代、70年代は頻繁に「障害児殺し」事件が新聞紙面を覆っていた。自宅分娩が当たり前だった60年代以前は、お産婆さんが障害があると分かると、母親に見せる前に口をふさぎ窒息させて死産だったと告げていたとも聞く。障害があるとわかる子は、親に「望まれない」「あってはならない」存在だった。そしてそのような子が生まれるのは、「親の因果が子に報い」で、主に母親に原因があるとされてきた。それ故、施設や福祉サービスがほとんどないなか、障害児の世話を一身に担い、わが子の障害を不憫に思うと同時に自責の念に駆られて手をかけてしまい、自らも後追い心中するのは母親が多かった。そうして障害児殺しをしてしまった親には、世間から今までの無関心を補うだけの同情が寄せられ、同じ障害児をもつ親の会からは「福祉施策の不備なるがゆえに起きた不幸な事件で、殺したくて殺したのではないから情状酌量を」求める減刑嘆願運動も起きていた。
そうした個々の親(殺す側)の事情を斟酌する余地はあることを認めながら、それでもなお「殺される側」から、「なぜわれわれ障害者は殺されなくてはならないのか」「なぜ殺した側は同情され、殺された障害児はかわいそうではないのか」「障害者は殺されたほうが幸せなのか」と根源的な問いを社会に突き付けたのが、1970年横浜市金沢区で起きた障害児(脳性まひ児)を殺した母親に対する減刑嘆願運動を批判し、厳正な裁判を求めて立ち上がった「青い芝」神奈川県連合会(以下、神奈川青い芝)だった。神奈川青い芝のこの運動は、後に日本の障害者権利運動の萌芽として語り継がれることになるが、故横塚晃一さん著『母よ! 殺すな』(1975年→81年、2007年生活書院より復刊)と故横田弘さん著『障害者殺しの思想』(1973→79年、2015年小社より復刊)により、当時の社会の意識や青い芝の行動が記録されているので、孫引きなどでなくぜひオリジナルを読んでいただきたく思う。(実は神奈川青い芝の仲間の中でも、障害児殺しを自分の=殺される側の問題としてでなく、親の立場から捉えている人もいたことなどが、当時の会議録からわかる。横田さんは健全者社会への鮮烈な批判だけでなく、自らの「内なる優生思想」にこそもっとも厳しい目を向けられていた。)
横田さんたち神奈川青い芝が展開した「障害者殺しの思想」(個々の家族の問題ではなく、「よってたかって世間が、地域社会が殺した」、つまり障害者を「異物」として排除する社会の思想)への批判については、本書を読んで頂くとして、こうした批判を「社会の良識」に向けて突き付けていきながら、横田さんは冷静に自分たちの運動の限界も認識していたことをここでは留意しておきたい。
「障害者がなぜ殺されるのか、といえば、これは繰り返して書いてきたとおり、人びとが私たちの存在を、結局は自分たちの仲間と は認めない、異物・異形の存在だとする意識が大きく働くからに他ならない。だとすれば、これを破るためには障害者それぞれが住んでいる場で他の人びとと如何につきあっていくか、障害者が生きるということは正にそうした人びととのつきあい方の問題であると言ってもいいだろう。(中略)
私が歩けないなら歩けないままに、言語障害があるならあるままに、相手の健全者が歩けるなら歩けるままに、喋べれるなら喋べれるままに、お互がその存在を認めあう、そうしたつきあい方を言っているのである。減刑嘆願運動を行うことで、障害児の存在を物の見事に異物・異形に仕立てあげていった地元、富岡町内会の人びととの話し合いを行うことは、そうした障害者と健全者とのつきあい方の問題を切り拓く絶好のチャンスだったはずである。それをなし得なかったことは私たちのそれからの運動面、また、今後の運動の進め方の上からみても、非常に大きなマイナスだったといえるだろう。」
青い芝の会の特に70年代の苛烈な運動に関しては、告発主義で現実解がないとか、青い芝は健全者は何も考えることなく手足となって介助すればいいと考えている(「健全者手足」論)という批判がある。そうした批判は、当時を知る人が少なくなるにつれ、青い芝の「伝説化」と共にますます流布されていく。もちろん、70年代末から80年代初頭にかけてのほんの短い期間、学生ボランティアとして「青い芝」のなんたるかも分からず、「手足」になれるほどまともな介助もできずに横田さんにかかわっていた私が、こうした批判に対して何か言えるわけではない。
しかし、横田さんの『障害者殺しの思想』を読むと、強制疎開によって幼なじみと引き離されたところで「障害者と健全者との関り合い、それは、絶えることのない日常的な闘争(ふれあい)によって、初めて前進することができるのではないだろうか」と、「闘争」にわざわざ(ふれあい)とルビをふって書かれている。就学免除によって近所の幼なじみたちと共に学校に行けなかった横田さんは、養護学校義務化によって就学免除・猶予は激減したが、分離教育が障害児と健全児を分断し、障害者の存在を社会から消し去っていく(闘争=ふれあいの機会を奪う)ことに対し、養護学校義務化阻止闘争の際、体を張って闘った。
「たくみな差別構造の利用によって分断化された『障害者』と『健全者』との間を止揚する為には、まず、『障害者』が自らの位置を確認する、つまり、現代資本主義の下にあっては、その疎外された肉体性によって『本来あってはならない存在』とされた位置を確かめ、逆にその位置を武器として『健全』な肉体を与えられたと思い込まされている『健全者』の社会への闘争(ふれあい)を働きかける事ではあるまいか。」
障害者と健全者の絶望的なまでの分かり合えなさを自覚しつつ、それでもなお共にあることの中で、障害者がこの社会では「本来あってはならない存在」であることの意味に覚醒し、健全者へ絶えざる闘争(ふれあい)を仕掛けることではじめて、健全者が自己変革する可能性が出てくる。その絶望的な可能性に向けて、横田さんたちは告発し、叫びつづけてきたのだということを私は身をもって知っている。
横田さんたち「本来あってはならない存在」とされた側からの真剣な、存在かけての問いかけは今、ますます重い意味をもっている。
福祉施策・サービスが一定充実し、建物や交通のアクセスも世界トップレベルといってよいほど整備された今、青い芝の会をはじめとする障害当事者運動が拓いてきた社会変革の大きさを思わざるをえない。しかしその一方で、横田さんたちが問い続けた優生思想、医学モデル、パターナリズムは、出生前診断や尊厳死・安楽死法制化、あるいは障害で分けて療育・教育することが本人のためであるとする原則分離教育に根強く残っている。
『増補新装版 障害者殺しの思想』は過ぎ去った70年代の輝かしい闘争の歴史としてでなく、今こそ甦える「おおいなる叫び(マハ・ラバ)」として読んでいただければ復刊した甲斐があるというものです。(猫)
※「マハ・ラバ」とはサンスクリット語の「大いなる叫び」という意味。茨城県の閑居山願成寺の大仏空(あきら)和尚の下で、脳性マヒ(CP)者の解放コロニー「マハ・ラバ村」に10数名の脳性マヒ者が自給自足的な共同生活をしていたが、横田さん、横塚さんたちがCP者同士で結婚し健常な子どもが生まれ、1967年、CP者の共同体を出て健全者社会へ戻ることを決意した。そこから神奈川青い芝の健全者との闘争(ふれあい)は始まることになる。