編集部だより
2016年09月06日
声明 相模原市の入所施設障害者殺傷事件を受けて
声明 相模原市の入所施設障害者殺傷事件を受けて
――問われるべきは、施設収容主義と私たちの社会に蔓延する優生思想と不寛容
福祉労働編集委員会
相模原市の神奈川県立津久井やまゆり園で知的障害のある入所者一九名が殺害され、二七名が重軽傷を負った凄惨な事件から一カ月がたちました。亡くなられた方たちの無念と恐怖、入所者、職員、被害者の家族の皆様が受けた心身の深い傷を思うと、言葉もありません。改めて深い哀悼の意を捧げると共に、心よりお見舞いを申し上げます。また、今なお惨劇が起きた施設で暮らさざるを得ない利用者が大勢いらっしゃいます。必要な支援を受けて安心して暮らせる地域社会になり得ていないことに、私たちの取り組みの力不足を思わざるを得ません。
逃げることも抵抗することもできない重度の障害者を計画的に襲撃した犯行は、いかなる動機・背景があろうと許せるものではありません。しかし、今回の事件の衝撃の大きさは、犯行の凶悪さや殺傷された被害者の数の多さではなく、「障害者は死んだほうが幸せ」という歪んだ障害観(優生思想)を基に公然と障害者の抹殺を謳い、それを実行に移す者(しかも当該施設の元職員)が出現した点にあると私たちは考えています。
容疑者が衆議院議長宛に送った手紙には「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です」とあり、「今こそ…全人類の為に必要不可欠である辛い決断をする時」と日本国にその決断を迫っています。国家の要請を受けて自ら手を下すという独善的な考え方は論外として、障害者の存在を否定する捉え方は容疑者だけの特殊なものと言えるでしょうか。
石原元都知事の「ああいう人たちに人格ってあるのかね」発言(府中療育センター視察時)、茨城県教育委員の「技術の進歩でああいう子どもたちを減らせないか」発言(特別支援学校視察後)に代表されるように、政治家や教育行政に携わる者が障害者の存在を否定する発言を公然と行い、ネット上で障害者に対する嫌悪・侮蔑・差別感にまみれた書き込みが氾濫し、新型出生前診断で陽性と確定診断を受けた九割以上の人が中絶をし、「終末期」の患者の尊厳死(延命措置不開始)を認める法案が国会提出されようとしている今の日本社会は、重度の障害のある人たちが安心して人生を謳歌できる社会とはとても言えません。
人工呼吸器を使えば何十年と生きられるかもしれないのに、家族介護の負担を慮り人工呼吸器を付けないで亡くなっていく患者さんが大勢おられます。重い障害があるから、医療的ケアが必要だから、他の子どもの迷惑になるからと地域の保育園や学校を拒否され、街や交通機関で「邪魔くさい」と舌打ちされたり、「他のお客様の迷惑になる」と入店拒否に遭ったりと、障害者は日常的に言葉で、態度で、視線で「刺され」、排除や差別を経験してきています。今回の事件は決して意外なことではなく、「恐れていた最悪のことが現実のものになってしまった」と私たちは受け止めています。
こうした社会に蔓延している優生思想を背景とした凶行が、なぜ今、地域の往来ではなく入所施設で起きてしまったのか、ということこそ問われるべきと私たちは考えます。
福島智さん(東大教授、盲ろう者)が指摘されておられるように、容疑者は障害者を殺す理由として「世界経済の活性化」を挙げています。このことは、労働生産性、効率性の劣る者は(障害のあるなしに関わらず)社会・集団から蹴落とされ、排除されて当然という社会を意味しているのではないでしょうか。
すでに障害者や性的マイノリティ、在日外国人、ホームレスの方々などは日常的に差別や中傷の対象になっていましたが、新自由主義の浸透のなかで、政治家による生活保護バッシング、特定の民族に対して往来で「ぶっ殺せ!」と行われるヘイトスピーチ、ホームレスの人たちを公園や地下道から締め出す行政など、「弱い者」、「異質な者」たちの尊厳どころか生存を奪うことすら躊躇しない不寛容さが社会にあふれています。安倍政権はこうした不寛容さを是正するのではなく、グローバル経済競争を勝ち抜くための政策を優先させています。そのことが障害者への否定的な捉え方を、思っているだけでなく実際に存在の否定(殺害)という別次元に飛躍させた背景としてあるのではないかと、私たちは危機感をもって受け止めています。
そして、何よりも考えなければならないのは、今回の事件が入所施設で起きたこと、そして亡くなられた方々がどのような方でどのような人生を送ってきたのかが、遺族の希望でほとんど報道されていないことの意味です。百五十余人の障害のある方が長期にわたって暮らさざるを得ない入所施設それ自体が、そこに居る人は「地域社会で暮らせない人」という社会の排除を体現しています。今日では施設と地域との交流があり、住環境や処遇が改善されていたとしても、集団処遇で集団の規律が支配する全制的施設は、個人の個性や主体性を剥ぎ取り、単なる施設入所者、障害者という記号に化してしまいます。事件の被害者の方々が一九人という数字(と年代・性別)に収斂されていることの意味を重く受け止めるべきです。
特定の人を収容するために用意された入所施設という装置こそが、不本意のままそこに長期間居ざるを得ない人たちを「不幸な存在」にしていったのではないでしょうか。入所施設を未だに必要としている私たち社会の無自覚なままの排除が容疑者の犯行を後押しした、と思えてなりません。亡くなられた方々は、施設で暮らさざるを得なかったこと、事件そのもの、そして亡くなられた後も個人としての存在を残せなかったことによって三度「殺された」と、敢えて指摘させていただきます。
今回の事件を受けて、政府は施設の安全管理強化を指示しましたが、施設の安全管理強化はますます地域から施設を孤立化させることに他なりません。そもそも今回の大量殺傷事件は、同じ障害のある人が、アパートやグループホーム、自宅で、家族や支援者と暮らしていたら起こり得なかったのです。
養護学校義務化以来三八年間にわたり、「分け隔てられることなく共に学び・育ち・暮らす」社会づくりの政策提言をし、各地の取組みを伝えてきた福祉労働編集委員会は、今回の事件を機に、保育・教育段階からの分離と施設収容主義の弊害を真に反省し、脱施設・地域移行を本格的に進めること、家族だけに「負担」を負わせるのではなく、地域で様々な人々が違いを認め合い、共に暮らす社会を創っていくために必要な施策を進めること以外に、この痛ましい事件を乗り越えていく道はないと確信しています。
また、容疑者の精神科(措置)入院歴や薬物使用を犯行と結び付ける報道や論議が一部にあり、政府はいち早く措置入院に関する検討会を設けて検討を開始しています。しかし、精神障害の有無に関わらず、人が凶悪犯罪を行うかという予測は精神科医も、検察官も、裁判官も不可能です。かつて池田小学校での児童殺傷事件を受け、再犯予測は不可能であり、果てしない収容と強制治療は人権侵害だという多くの批判をよそに、あっという間に心神喪失者等医療観察法が成立してしまいました。しかし、法施行後の実態(治療の必要性がなくなっても再犯を怖れ長期収容化している、被処遇者の自殺率がとても高いなど)から見ても、精神医療を治安維持に使うことは医療の信頼性を損ない治療に利さないこと、社会の偏見を助長することは明白です。薬物使用との関連を含め、犯行に至る動機や背景の解明は今後の真摯な究明を待つしかありません。拙速な議論で精神障害・薬物使用と犯罪を結び付けて差別と偏見を煽り、更なる人権侵害を繰り返さないよう慎重な態度を求めます。
最後に、事件後数々の障害者団体・個人、施設関係団体、親の会、識者等から声明、コメントが出され、報道機関も今回の事件を容疑者個人の特性によるものと捉えるのではなく、障害者差別、優生思想という私たち一人ひとりにつながる社会の問題と捉え、丁寧な取材をされています。しかし、最も耳を傾けるべき施設入所者自身の声がなかなか聞こえてこないことを私たちは憂慮しています。報道機関には、最も声を上げにくい、上げても届きにくい施設内からの声を汲み上げる努力を続けていただきたいと要望するとともに、福祉労働編集委員会としてもその視点を忘れることなく、この事件を考えていく所存です。
次号(十二月発売号)でこの事件をどう捉えるかの特集を組み、読者の皆様と考え合いたいと思います。
二〇一六年八月二十六日(事件から一カ月を経て)