2020年1月8日夕刻、会社で正月休みのメール返信作業中、上原正三先生からメールが入った。
新年のご挨拶はいただいているので、何だろう、と訝りながらメールを開くと次のようなものだった。
「上原正三の長男の敬太郎と申します。
さる1月2日、父・正三が他界いたしました。故人の遺志に基づき、葬儀は身内だけで執り行い、香典・弔問などはすべて辞退させていただきたく存じます。
よろしくお願い申し上げます。」
なぬ〜、いま整理していたメールに上原先生からのメールがあったぞ、とすぐ前に戻ると、確かに1月2日10時31分のメールだ。それは、老々介護を続けるため体力の回復に努めるという前回のメールに次ぐもので、新年の挨拶と年末に体調を崩したがもうメールも書けるようになった、といういつものように明るいユーモアのある内容だった。
驚き、すぐご自宅にお電話。敬太郎さんが出て、2日に夕食を呼びに行ったら、倒れていたのだという。葬送は家族で執り行って、一息ついて先生のメールを開き、私のメールに返信する形での敬太郎さんからのお知らせだった。
頭の走馬灯が急回転しだし、上原先生との想い出が溢れだした。
上原先生の本業である、「特撮を中心にしたファミリー向け30分ドラマ」や金城哲夫氏、円谷一氏との交流に関しては、朝日新聞「天声人語」や切通理作さん、秋田英夫さんなど多くの方が追悼文をお書きになっているので、書籍の想い出で追悼してみたい。
2009年の
『上原正三シナリオ選集』の出版が最初の出会いである。
上原先生を師と仰ぎ、熱烈なファンでもある、白石雅彦さん・秋田英夫さん・斉藤振一郎さんの三人が弊社を訪れ、上原先生のシナリオ選集を出版してほしい、とのお話しだった。お三方のどなたとも初対面である。
熱意の籠もったお話をお聞きしているうちに、この本を出版するのが私の使命であるように思われてきて、即座にお引き受けした。
私の希望は、これまでにないシナリオ選集にしたいので、内容は厳選しどれだけ厚くなってもいい、ということで、作業が始まったのだった。結局、A5判2段組ハードカバー744ページ。
よーし、ついでに先生の対談と活字化できなかった生原稿や印刷台本など、貴重な資料をCD・DVDに入れて付録にしよう、となった。これは確かに、上原先生の本業を伝える上でこれまでにない貴重な書籍になったと思う。
本の製作過程で、上記三氏と上原先生を交え、近所の沖縄・奄美料理の居酒屋で飲んで出る話は、やはり故郷・沖縄の現在過去だった。そこでの先生は、虐げられた故郷に想いを馳せるいち琉球人であった。
そんな中で、ご自分の少年時代の体験を基にした自伝的小説をお書きになっている、という話が出た。私は、小説はほとんど出版していない我が社であるが、どうしても出させていただきたいと思い、恐る恐る「うちで出版させていただけないでしょうか」と問うてみた。すると、先生は「あなたがやってくれるなら本望だ」と即座に応えて下さった………。条件はただひとつ、うちなんちゅうの言葉はヤマトの言葉に直さないことだった。
それから8年、
『キジムナーKids』は何度も何度も推敲を重ね、2017年6月23日「沖縄慰霊の日」の発行日で弊社創業50周年記念として遂に刊行された。この日、沖縄戦で散った多くの島民に献杯しながら飲んだ泡盛の味は、生涯忘れられないものになった。この本は、この年の「第33回 坪田譲治文学賞」を受賞し、先生と二人で岡山に行き授賞式に臨み、一緒に飲んだ酒も格別の味だった。
法もない国もない少年時代の奔放な生活、あの一時の自由は先生の原点なのだろう。
とは言っても、アメリカ軍占領下から本土に「復帰」したという沖縄の現状はどうだろう。本土から基地を押しつけられ、ヤマトの機動隊員に「土人」と罵られ、未だ世界有数の基地としてアメリカに占領されている沖縄、戦争中とさほど変わったとは思えない。
上原先生、私がいつか再び先生とお会いするとき、もう沖縄にアメリカの基地はありませんよ、といいながら古酒を飲めるよう、努力することをお誓いし、筆を擱きたいと思います。
上原正三先生、安らかにお眠り下さい。
2020年1月11日
現代書館 代表 菊地泰博