現代書館

WEBマガジン 18/01/30


第21回 6−2 拝啓、グエン・バン・リン書記長殿(その2)

黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」


 ミールのクラスもだいぶ上級になり、ついにわたしも一夫先生のクラスで勉強するときが来た。毎週ではなく、確か隔週で、しかも金曜日だけだったと記憶している。貝澤くんや筆塚さんも同じクラスだった。
 
 授業では課題がいくつかあったが、一つはやっぱりラズガボールニクだった。ただしラズガボールニクそのものを使って勉強するのではなく、対応する「食事」「住宅」「医療」といったテーマで、リスニングをするのである。
 
 その方法が興味深かった。
 一夫先生はテキストを事前に録音しておいて、それを授業中に再生して、わたしたちに聞かせ、口頭で訳させるのである。その場で読み上げるのではないところが、ミソである。このような作業は、おそらく通訳の訓練も兼ねていたのではないか。
 
 テキストは外国人向けロシア語教材から選んでいたらしい。それもいくつかあって、先生は教科書を切り張りしてファイルし、それを自分の手元に置きながら、テープを再生する。
 初級文法が終わったあたりの読本は、「出会い」とか「家族」とか、そういう無難なテーマが多い。それをテーマ別に集めて、集中的にリスニングの訓練をすれば、重なる部分が多いので、自然と身につく。
 予習してこなくていいところは楽だが、リスニングは緊張した。

  *         *        *

 さらに研究科に上がると、新聞記事の講読がおこなわれた。
 これは本当にタイヘンだった。一夫先生が事前に新聞記事を指定するので、わたしたちは各自それを入手して予習し、授業中に口頭で訳すのである。わたしは大学の図書館でソビエトの新聞を探し、必要な個所をコピーして、授業に備えた。大学に所属していたからいいようなものの、他の人はいったいどうしていたのか、いま考えても不思議である。
 
 はじめて指定された課題は、忘れもしない、ベトナム共産党書記長グエン・バン・リンがモスクワを訪れた際の、ゴルバチョフ共産党書記長(当時)の歓迎スピーチだった。
 グエン・バン・リンは一九八六〜九一年の在職中に、経済改革「ドイモイ」を推進した。「ベトナムのゴルバチョフ」と称せられた人物が、そのゴルバチョフ本人から歓迎を受ける場面なのである。
 
 いまは何でも調べがつく時代で、試みにインターネットで探してみたところ、それらしき新聞記事が見つかった。
 
 ==============================
   同志グエン・バン・リン殿!
   ご来場の皆さま!
 ベトナム共産党中央委員会書記長および同行されたベトナムの友人の皆さまに歓迎の辞を述べることを、わたしたちは心より嬉しく思っております。すでに行われました交渉および会談を通じまして、皆さまのソビエト連邦訪問が両党、両国、両国民の揺るぎない親密な関係における新しくて重要な貢献となると、確信をもって語ることができます。
===============================

 いま訳出を試みても、けっこう難しい。こういうスピーチは、訳し方にも定番があり、とくにこのような公式な場面では、それに沿って通訳することが求められる。大学生だった当時のわたしには、辞書を引いて意味を考えるだけでも、かなり苦戦した。
 
 それでもなんとか準備をして、授業に臨んだ。多喜子先生の授業から類推すれば、まずはテキストを見ながらの訳読である。ところが一夫先生の授業は違った。
 
 「《それではテープに続いて日本語に訳してください》」
 
 なんと! テキストを見ないで、いきなり口頭和訳である。いくら事前に読んできたからといって、一つの文がこんなに長いものを、スラスラと訳せるはずがないではないか! 
 それでも自分の番が無常に回ってくる。しかもよりによって「すでに行われました交渉および会談を通じまして」だ……。
 
 結果はどうだったかといえば、あまりにもつらかったせいか、まったく記憶にない。このあとには和文露訳もあったはずだが、どう考えても無理である。自分の準備不足を思い知らされた。どんなテキストが指定されても、ミールはミールである。和訳にせよ、露訳にせよ、課題をうまくこなそうと思ったら、暗唱しておかなければならないのだ。
 
 ただ、わたしは一夫先生の授業が嫌いではなかった。その反対に、こういうスピーチがスラスラと訳せるようになりたいという、新しい目標ができた。
 それ以降は、せっせと予習するようになる。その頃は通訳の仕事も観光ばかりでなく、会議やシンポジウムまで依頼されるようになっていた。一夫先生の授業は、まさに実用的だったのである。
 
 拝啓グエン・バン・リン殿、あなたはわたしにとって、公式通訳の象徴です。

【最新記事】
GO TOP
| ご注文方法 | 会社案内 | 個人情報保護 | リンク集 |

〒102-0072東京都千代田区飯田橋3-2-5
TEL:03-3221-1321 FAX:03-3262-5906