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第三十五回 『A3』についての感想 |
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斎藤美奈子
森 達也さま
『A3』をめぐる「創」3月号の論文、読ませていただきました(「論争以前の二人」っていうタイトルも、なかなか挑発的ですね)。 貴君がここで反論している(反論する元になった)ジャーナリストの青沼陽一郎氏のブログと、青沼さん、弁護士の滝本太郎さん、フォトジャーナリストの藤田庄市さんの3名の連名で出された、講談社ノンフィクション賞に対する抗議書も読みました。 以下は友人としての欲目を外した、客観的な意見としてお読みください。 抗議書および『A3』批判の中身の問題以前に、この「騒動」(とあえて呼ばせてもらいますが)に対して私が疑問を持った点は2つあります。
第1に、なぜ、著者の森達也でも、発行元の集英社インターナショナルでもなく、抗議の宛先が講談社になるのだろう、ということです。 著作の中身に不満ないし疑問があるなら、普通は著者を批判するのが筋ですよね。共同責任として「こんなものを出した発行元」の発行責任が問われ る場合もあるでしょう。だけど、そこをスルーして「賞を出した講談社」に抗議するってことは、「賞を穫らなければ問題はなかった」ということなのでしょう か。そこがどうもわかりません。 抗議書の「4」には、たしかにこう書かれています。 〈書籍は、単に一般に出版されるだけでならば、所詮一筆者の論述にすぎないとして格別の影響力を持たないことがある。(略)しかし、「権威を備 えておられる貴「講談社ノンフィクション賞」を受賞したとなると、後世に残り得るものとして、多くの人が関心を持つことになる。そしてその権威からして、 後世に、その内容にわたっても相当の信頼性があるものと思われる蓋然性がある〉 これはしかし「出版物に対する賞」を買いかぶりすぎ(絶対視しすぎ)、の感じがします。 日本には、そもそも「出版物に対する賞」が掃いて捨てるほどありますし、はっきり申し上げて「賞を穫ったがひどい作品」なんか、いくらでもあります。 それも含めて読者は著作の中身を(選考委員の見識も含めて)判断する権利がある。たかだかノンフィクション賞を一個穫ったくらいで、〈後世に、 その内容にわたっても相当の信頼性があるものと思われる蓋然性がある〉と考えるのは、読者の判断力を舐めているとしか思えないし、賞の「権威」に自分たち がひれ伏している証拠のようにも思えます。
第2の疑問は、なぜ著作に対する批判が「抗議書」の形を取るのかです。 抗議書には、『A3』がノンフィクション賞に値しないといいう理由が縷々書かれていますが、だったら批判は批判として発表すればいいんですよ ね。というか雑誌記事やブログの形で、青沼さんたちはそれをすでに発表していて、私たちは抗議書も批判の内容を読むこともできる。それだけではダメなので しょうか 『A3』がノンフィクション賞を穫って社会的影響力が大きすぎるというのなら、『「A3の欺瞞を問う』とか何とかいうタイトルで、きちんとした 批判の本を書けばいい。そういう本は世の中にいくらでもありますし、批判の中身がきちんとしていれば、出版に応じてくれる出版社もあるでしょう(一例をあ げますと、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、ミリオンセラーにもなった妹尾河童『少年H』(講談社・1997)に対する批判の書として、山中恒・山中典子 『間違いだらけの少年H ー銃後生活史の研究と手引きー」(辺境社・1999)という大部の本が出ています。非常に読み応えのある本です)。 著作物に対する批判は、著作物で行う。それが基本的なルールだと思うんですよね。読者の前に2冊の本がそろっており、読み比べることができれ ば、あとの判断は読者がする。よほどの名誉毀損や著作権侵害などがあった場合は、裁判闘争が必要なある場合もあるでしょう。が、今度の場合は、そういうわ けでもない。 抗議書には〈貴社にあって、「A3」に2011年のノンフィクション賞を授与することにつき、ここに強く抗議する〉という「結論」が述べられて いますが、彼らが講談社に何を要求しているのかも、よくわかりません。授賞を撤回せよというのでも、本の絶版と回収を要求するのでもなく(それだと宛先は 集英社になるはずですが)、講談社ないし森達也ないし選考委員に釈明を求めているのでもない。「抗議しました」というだけなら、講談社としては「はい、ご 抗議、承りました」以上の解答はできませんよね。
で、批判の中身ですけれど、彼らが指摘しているのは、 @事実誤認や資料の恣意的な選択が多すぎる、A『A3』は「弟子の暴走」説をもって「麻原の無罪」を主張している(のが許しがたい)、ということのようです。 @に関しては、まあ事実誤認もあるだろう、と思います。「事実」とはどの立場から見るかによって微妙に(ときには180度)変わるものですし、 森達也だって全知全能ではないのだから、間違いも犯すだろう。資料に関しても、書き手が資料の取捨選択を行うのは当然なので、別の人から見れば「恣意的」 に見えることもあるでしょう。ですので、この点に関しては(細かい事実関係に関して訂正が必要な点があったとしても)、概して「揚げ足取り」に近い印象を 受けます。 Aに関しては、もちろん彼らの誤読ですよね。貴君がいうように、『A3』が唱えているのは単純な「弟子の暴走」論ではないし、麻原が無罪だとも いっていない。〈僕が『A3』で大きなテーマにしたのは、そこに至るまでの過程であり、麻原と弟子たちの相互作用だ〉というのは読めばわかることですし、 〈批判するならちゃんと読め。最低限の誠意でありマナーだ〉といいたくなる気持ちもわかります。 ですが、(あえてヒョーロン家的なことをいえば)論争っていうのは、誰がやっても、どんなテーマでも、いつの時代も、必ずこうなるのです。「批 判するならちゃんと読め」「てめえこそちゃんと読め」という「ちゃんと読め」コールにはじまって、次には「おまえのレベルは話にならん」「おまえのレベル こそ低すぎる」という「レベル問題」が出てきて、最後は必ず言葉尻をとらえた不毛な応酬になる(戦後の大きな文学論争を収録した臼井吉見編『戦後文学論 争』1972 、という本を読むと、それがよくわかります)。 そりゃそうですよね。最初の段階で「こいつのイチャモンは的が外れている。ちゃんと読んでねえだろう」と思ったら、マトモに議論する気力もなく なります。それでもやりとりを続けていたら、どうしたって疲弊しますから、議論はどんどん雑になる(青沼さんたちの批判も抗議書の段階ではまだ冷静さを 保っていますが、その後の青沼氏、滝本氏のブログは、単なる罵倒のレベルになっちゃってる)。 その意味では、まさに貴君の論敵は「論争以前の二人」なのですが、たぶんあっちもそう思っているはずなので、お互いさまかもしれません。
〈やっぱり不思議になる。なぜここまで憎悪できるのだろう。罵倒できるのだろう。なぜここまで必死に『A3』を封殺しようとするのだろう〉とい う点に関しては、私も不思議な気がします。しかし、『A3』にも出てくるように、(特に滝本弁護士は)事件に関与した弟子たちを「麻原の被害者」ととらえ ているわけですから、弟子たちにも責任の一端はあった、という『A3』の論旨は看過できなかったのではないでしょうか。 責任は100%麻原にあるという立場からすれば、「麻原と弟子たちの相互作用」論でも、許しがたかったのかもしれない。前回の貴君のメールに即していえば、 〈社会の側だけではなく犯罪に加担したオウムの信者たちも、このレトリック(麻原にマインドコントロールされていたという)にすがりたくなる。あ れほどに凶悪な行為をやってしまった理由は洗脳されて判断力を失っていたからだと、自分に説明することができる。アンビバレンツを解消してしまえる〉 ってことなんでしょうね。
『A3』の価値は(「A」「A2」も含めてですが)、世間の論調が一方向に固まっていくことへの「かすかな抵抗」であり、事態に「一石を投じ た」ことだろうと思います。裁判で認定された「事実」だけがすべてではないのではないか、という疑問を投げかけたのが「A」シリーズの意義だった。冷静な 読者なら、そのくらいのことはわかります。 もしも「A」シリーズがなかったら、オウム真理教事件に対する評価は一色に染まってしまい、異論は一切なかったかのように後世の人は思うでしょ う。そっちのほうがゾッとします。実際、『A3』についても、最初は「黙殺」に近い形で、書評も出ないことに、あなたも落胆したわけじゃない? メディア はほんとは黙殺したかったのかもしれない。それが講談社ノンフィクションを受賞して「一石」の価値が認められたのはよかったと思う。 ただ、そうはいっても、日本全体から見れば『A3』の論旨は少数派中の少数派で、青沼さんたちの意見のほうが、圧倒的に多数派なんだよね。 事実、『A3』が(あるいは講談社ノンフィクション賞が)、彼らが心配するほどの社会的な影響力をもっていない証拠に、オウム真理教事件や麻原 裁判に対するメディアを含めた世間の目には、『A3』以後も大きな変化はないように見えます。裁判のやりなおしを求める声が、あがったりもしていません。 それが世の中の趨勢なんだから、少数派の「異論」くらいほっときゃいいのにな、と思います。
たださ、友人としてザックバランなところをいえば、あなたの作品は論敵につっかかられやすい性質を持っているとは思うよ。ノンフィクションいか にあるべきか、という定義の問題にもよるけれど、事実を緻密に積み重ねていくという従来の手堅い手法からいえば、「歩きながら僕は考えた」みたいな「わた くし性」が前面に出すぎだし、「わっ、こんなことまで書いちゃうのか」と思うところがないとはいえない。そのわりには実名入りの批判もばんばん出て来て、 好戦的だし、攻撃的じゃない? こりゃあ敵もつくるよな(そもそもケンカ売ってんだから)、と小心者の私なんかはドキドキしてしまいます。 ノンフィクションとはいいながら、森達也の方法論は想像力を駆使している点で評論的かもしれない。もっとも、それが森達也の芸風(スタイル)で ある、と理解すれば、多少の暴論や論理の飛躍も許せる。というか慣れてくる。でも、私もときどき、あなたの言い方につっかかっていくでしょ。それはね、 ちょっとばかり脇が甘いんだよ(笑)。というか、ナイーブな感じを装った(装ってるんなじゃないとあなたは言うだろうけど)「真摯に考えている僕」みたい な姿勢にカチンと来ることが、たまにあるわけ。あ、でもこれは私の独り言なので、気にしないでください。 以上、『A3』騒動に関する感想でした。 原発問題については、あらためて。
斎藤美奈子
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