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web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第166回 |
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件名:『非常戒厳前夜』を観て 投稿者:森 達也
美奈子さま
9月に公開されるドキュメンタリー映画『非常戒厳前夜』を観ました。 まずは登場人物がかなり多い。しかも設定が少しだけ複雑だ。おまけに(当たり前だけど)みな韓国の名前でカタカナ表記なので、冒頭からしばらくはちょっと混乱するかも。でもしばらく観続ければ、きっと最後まで目を離すことができないはず。 だって(隣の国なのに)日本とはあまりにも違い過ぎる。 もちろん、韓国の民主主義も、まだ成熟しているとはとても言い難い。でもジャーナリズムの意識と行動力は違う。突出している。そしてそれを支援する人たちの意識も。ならばいずれ社会と政治も水準を合せるはず。そんなことを考えました。 2024年12月3日、ユン・ソンニョル大統領(当時)は緊急放送されたテレビで、主要野党の「共に民主党」を北朝鮮支持の反国家勢力と断定し、唐突に非常戒厳を宣布しました。 チョン・ドウファン軍事独裁政権下の1979年以来の戒厳令です。そのとき政権と軍は何をしたか。国民を無差別に殺害した光州事件だ。だからこそ今回の戒厳令宣布に対する市民たちの抵抗はすさまじかった。武装した兵士によって国会は封鎖されたが、約6時間後に非常戒厳令解除を要求する決議を全会一致で採択し、事態は無血のままに収束しました。 とはいえ、野党議員やおおぜい集まった市民たちが国会前であれほど強く抗議しなければ、事態は最悪の展開を迎えていた可能性もある。事後の押収された戒厳軍の逮捕リストには、「共に民主党」のイ・ジェミョン代表(一昨日大統領として日本に来て石破首相とカレー食べてた)だけではなく、与党「国民の力」の代表や国会議長、さらには市民運動の活動家など、与野党官民問わずおおぜいの人がリストアップされていたらしい。 ちなみに戒厳軍兵士のライフル銃を正面から掴んで立ち向かおうとした女性の映像は日本のニュースでも何度も放送されていたけれど、彼女は元テレビアンカーで現在は「共に民主党」の広報官を務めているアン・グィリョンです。 最終的にユンは内乱容疑で逮捕され、イ・ジェミョンが新しい大統領に就任し、最近ではキム・ゴンヒ前大統領夫人の逮捕も報じられている。 なぜユンはこれほどに無謀な行いを決断したのか。乱心の背景には何があったのか。キム・ゴンヒ夫人の疑惑については、旧統一教会との絡みがあるからか日本のメディアは熱心に報道していたけれど、ユンの動機や経緯についてはきわめて冷淡だったとの印象があります。だからよくわからなかった。でも『非常戒厳前夜』を観てよくわかりました。 この映画を製作した「ニュース打破」は、イ・ミョンバク政権時代におけるメディア弾圧によってテレビ局を不当解雇されたり辞したりした元記者やディレクターやプロデューサーたちが中心となって立ち上げた調査報道に特化した独立メディアです。商業主義とは一線を画すため企業広告はとらず、6万人の市民からの支援で運営されていて、イ・ミョンバク政権時代のメディアと政治権力の癒着を告発したドキュメンタリー映画『共犯者たち』、北朝鮮のスパイとして韓国民をでっち上げで逮捕してきた国家情報院の不正を暴く『スパイネーション/自白』は、2018年に日本でも劇場公開されました。 とにかく徹底して権力を監視する「ニュース打破」は、ユンが検察総長候補者に指名された2019年から、ユンとキム・ゴンヒが2022年の国会議員補欠選挙で特定候補の指名に不適切に介入したミョン・テギュン・ゲートの疑惑などを追求してきたため、大統領となったユンから弾圧の標的とされました。大統領選挙の際にユンのフェイクニュースを流したとの(具体的にはユンへの名誉毀損)容疑で、本部オフィスと記者2名の自宅に検察は家宅捜査を行います。 でも記者たちは屈しない。忖度しない。迎合しない。あきらめない。与党議員からは「非国民」「死刑が妥当」などと罵倒されながら、自分たちが受け続ける言論弾圧や検察の不当な操作をキャメラに記録し続け、さらなる調査報道と法廷闘争によってユン・ソンニョル政権を追い詰めていく。 12月2日、疑惑の渦中に置かれていたミョン・テギュンは、刑事起訴の圧力をかけられたことでユン夫妻との通信記録が入った電話を検察に提出すると公表しました。ならば夫妻の関与が明らかになるかもしれない。その翌日、検察がミョンを起訴し、同日夜にユンがいきなり戒厳令を宣言する。 民主党の院内代表含めて多くの韓国の政治家やメディアは、この順番について偶然とは思えないと指摘しています。
翻って日本はどうか。特に安倍政権は、NHK経営委員および会長の人事に介入してNHKの独立性を脅かし、放送法の「政治的公平性」について総務省に解釈を変更させようとした証言や文書が暴露され、選挙前にテレビ各局に萩生田光一筆頭副幹事長(当時)らの名前で「公平中立な報道」を求める異例の要望書を送付して選挙報道を委縮させ、高市早苗法務相(当時)は放送法4条(政治的公平性)を巡って、繰り返し違反があった場合は「電波停止もあり得る」と発言して「政府が放送内容に直接介入する可能性を示唆したもの」として国内外から大きな批判を浴び、政権に批判的な複数のニュース番組のアンカーを降板させるように圧力を加えるなど、大手メディアに対して圧力や介入を間断なく与え続けました。 その帰結として大手メディアの多くは委縮し、週刊文春やしんぶん赤旗など記者クラブに入れないメディアの存在感が象徴的に示すように、いつのまにか権力監視機能を自ら放棄してしまっていた。 民主党政権時代の2010年に報道の自由度ランキングで11位だった日本のジャーナリズムへの評価は、今年は66位でG7においてはもちろん最下位です。「表現の自由」に関する実態調査で来日した国連特別報告者のデービッド・ケイは、国家権力による強制捜査や身柄拘束など直接的な弾圧や介入がないにもかかわらず、日本のメディアが権力監視機能を果たしていないことを厳しく指摘しています。 極論すれば、安倍政権がメディアに与え続けた圧力と介入に対しても、メディア側が一蹴すればよいだけの話なのに、日本のメディアにはそれができない。 「ニュース打破」の支援者は約6万人。たぶんここも日本とは違う。日本では(人口は倍以上だけど)独立系メディアをこれほどに多くの人たちが支援しようとはしないだろう。そもそもドネーションという意識がない。 『非常戒厳前夜』では、与野党含めて多くの政治家、家宅捜索中の検察官や捜査官、「ニュース打破」を目の敵にする大手テレビ局幹部やプロデューサーなど、すべて至近距離で捉えて映像には(まったくの民間人を例外にして)モザイクなど一点もない。不当な家宅捜索以降、「ニュース打破」の記者は国会の廊下を歩くユン大統領(当時)にカメラをかまえて突撃する。取材を受けてくださいと叫びながら。 そして撮られる彼らも、「撮るな」とは決して言わない。政治権力に捜査権力に報道の権力。彼らの共通項は権力を有していること。だからこそ監視されることは当たり前。そんな意識があるのだろうか。ならばこれも日本とはずいぶん違う。 観終えて嘆息します。いつのまに日本はこれほどに差をつけられれていたのだろう。
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