現代書館

WEBマガジン 21/06/30


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第116回

件名:現状への過剰な適応
投稿者:森 達也

美奈子さま

先日の朝日カルチャーはZOOMの画面越しとはいえ、しばらくぶりに顔を見て話すことができてよかったです。コロナの時代になって一年半が過ぎて、多くの人はZOOMやオンラインにすっかり馴れたと思うけれど、時おりベンヤミンが唱えたアウラについて考えます。
『複製技術時代の芸術』(晶文社)でヴァルター・ベンヤミンはアウラについて、「時間と空間がもつれあってひとつになったもの」「どんなに近くにあっても一回限りの現象」などと定義しているけれど、要するに思いきり意訳すればアクチュアリティの拡張概念。シミュラークルが欠落するもの。アウラとは英語でオーラだから、その意味ではオカルトの領域に近接はしているけれど、でも誰かを写真に撮った瞬間に失われるもの、ライブ会場にはあったけれどCDで再生しても感じられないこと、美術館で間近に見たピカソの絵が印刷されたときに消えてしまう何か、といえば、うまく説明できないけれど、でも何かがあって何かが消えたことは否定できない、と思う(もちろんプラシボ的な思い込みの可能性もある)。
ZOOMは確かに、わざわざ一ヵ所に集まって議論したりしなくても十分に目的が達成される(これまで当然のように会社で仕事をしていたけれど在宅で十分にできる)場合が多いことを実感させてくれたけれど、でも結局のところ、僕が三日前に見た美奈子さんの顔はウェブ用のカメラを通過した顔であり、マイクやスピーカーを媒介にした声である。言い換えれば電気信号。
もちろん視覚や聴覚など生きものの認知の本質は、結局は感覚細胞が感知した情報を電気信号に変えて大脳の視覚野や聴覚野などに再現されるというメカニズムだから、そもそもアウラは幻想である(失われている)との見方もできるけれど、でもベンヤミンが「時間と空間がもつれあって」と定義したことも重要で、例えば匂いとか湿度とか場の要素も重要なんだろうな、と思う。
ZOOMはそれが失われている。例えばCDとかは思いきり音を圧縮するために可聴範囲ではない音を切り捨てるけれど、その瞬間にアウラが消える。だから敢えて(可聴範囲ではない)ノイズを重ねると聞いたことがある。それが音のふくらみになるんだとか。
新型コロナによって生活様式が変わったと多くの人は言う。これまで気づかなかったこと、視野に入っているのに自覚していなかったこと、新たな視点、そうした要素に気づいて仕事や日常の様式が変わることのメリットはもちろんあるけれど、でも人とのコミュニケーションからアウラが劇的に消えてゆくことに対して、僕たちはもう少しナーバスであるほうがいいのでは、と時おり思う。

それはそれとして、とにかくオリンピック開会式まであと24日。一カ月前まで僕は、オリパラは結局のところ中止になるだろうと思っていた。いくらなんでも、と思っていた。
前回に美奈子さんも以下のように書いている。

東京五輪開催の可否についても、どの調査でも「中止すべきだ」が最多となり、朝日は「中止」と「再延期」の合計が8割、東京新聞は「中止」が6割でした。

朝日や東京だけではなく、このころの世論調査などでは、圧倒的に過半数の国民が中止か延期を支持していたはずだ。アウラ的にはほとんどの人が無理だろうとの認識を共有していた。
でも今、現実にカウントダウンが始まって、開催を支持する人たちのパーセンテージが急激に増えている。

開催が1カ月後に迫る中、東京五輪・パラリンピックをどうするのがよいか3択で聞いた。「今夏に開催」が34%(5月は14%)、「中止」32%(同43%)、「再延期」30%(同40%)と割れた。5月調査に比べ、「今夏に開催」が大きく増えた。
朝日新聞6月21日

ZOOMのときも話したけれど、人がもつ過剰な馴致能力を、今つくづく実感している。馴致能力を言い換えれば正常性バイアス。あるいは現状への過剰な適応。いい湯だなと鼻歌を唄っているうちに取り返しのつかない状況になってしまっている茹でガエルの法則。破滅が目の前に近づいているのに、そこから目をそらしてしまう。何とかなるさとどこかで思っている。でも同時に、このままでは危ないともどこかで思っている。どちらも意識のどこか。顕在化しない。自分を見つめない。論理で考えない。
……この状況について考えるとき、僕はいつも梶井基次郎の「路上」を思いだします。学校からの帰り道に梶井は、雨上がりの崖を歩いて降りようとしていた。近道だから。でも泥は滑る。このままでは崖から落ちるかもしれない。意識のどこかでそう思いながら、なぜか梶井の足は止まらない。そして案の定、崖を降り始めてすぐに、靴はずるずると下に滑り始めた。

石垣の鼻のザラザラした肌で靴は自然に止った。それはなにかが止めてくれたという感じであった。全く自力を施す術はどこにもなかった。いくら危険を感じていても、滑るに任せ止まるに任せる外はなかったのだった。
飛び下りる心構えをしていた脛はその緊張を弛めた。石垣の下にはコートのローラーが転がされてあった。自分はきょとんとした。
どこかで見ていた人はなかったかと、また自分は見廻して見た。垂れ下った曇空の下に大きな邸の屋根が並んでいた。しかし廓寥として人影はなかった。あっけない気がした。嘲笑っていてもいい、誰かが自分の今為したことを見ていてくれたらと思った。一瞬間前の鋭い心構えが悲しいものに思い返せるのであった。
どうして引返そうとはしなかったのか。魅せられたように滑って来た自分が恐ろしかった。……破滅というものの一つの姿を見たような気がした。なるほどこんなにして滑って来るのだと思った。
梶井基次郎「路上」

もちろん、感染が拡大する事態に付焼刃的に対応して弥縫しながらなんとかパラリンピック閉会式まで持ち込める可能性だって(僕はきわめて低いと思うけれど)、決してないわけではない。そしてそのときこの国は、明治期に日清や日ロの戦争を薄氷で続けながらとりあえず勝利したことで軍事優先の帝国としてステップを何段も上がって、最後に多くの人の命を奪いながら盛大に泥道を滑り落ちたように、もっと取り返しのつかない地点につるつると滑りながら行ってしまうのだろうな。

森 達也

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