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WEBマガジン 24/06/26


web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第152回

件名:『オッペンハイマー』と核抑止論の欺瞞
投稿者:森 達也

美奈子さま

美奈子さんは最近映画を観ていますか? もしも未見なら申し訳ないけれど、今月は最近観た二本の洋画について書きます。
まずひとつめは、クリストファー・ノーランの『オッペンハイマー』。この映画について僕は、ニューズウィーク誌に以下のようにレビューを書きました。

アメリカで同日公開された『バービー』と原爆のキノコ雲を組み合わせたインターネット・ミームが物議をかもし、さらに被爆した広島と長崎の描写がないということで日本公開は延期、あるいは公開できないなどの情報はネットで見聞きしていた。
ミームが不謹慎であることは確かだ。でも、話題のドラマ「不適切にもほどがある!」ではないが、昭和の時代にプロレスラーの大木金太郎の必殺技であるヘッドバットは「原爆頭突き」と命名されていて、入場時に羽織るガウンには大きなキノコ雲がプリントされていた。カール・ゴッチが必殺技のジャーマン・スープレックス・ホールドを決めた瞬間にアナウンサーが、「原爆固めです!」と絶叫していたことも覚えている。
だからといって正当化するつもりはない。ジェンダー問題やハラスメントも含めてあの時代の「当たり前」が、社会的弱者や少数者に対する想像力が機能していない「間違い」だったことは確かだ。それは大前提ながら、『オッペンハイマー』が日本で公開されないかもしれないとの情報に接したときは、ちょっと待てそれは違う、との意識を持った。
そう思った理由の一つは、オッペンハイマーの生涯を知っていたからだ。原爆を開発したマンハッタン計画の立役者。戦争を終わらせたヒーローとしてアメリカ国民の多くから称賛されながら、戦後に広島・長崎の惨状を知って激しく動揺し、水爆開発に反対して批判され、さらにアカ狩りの時代には共産主義へのシンパとして激しく糾弾された。
そのオッペンハイマーをクリストファー・ノーランが描く。国家と個の相克に触れないはずがない。そしてオッペンハイマーが抱え続けた苦悩や挫折は、人類が核兵器を手にすることの矛盾と無関係なはずはない。
だから思う。ロシアのプーチン大統領が核兵器の使用をほのめかしたとき、核抑止論の欺瞞に人類は気付いたはずだ。それなのになぜ日本は今も、核兵器禁止条約に批准すらできないのか。
本作は徹底して映画だ。映像と音の質量はすさまじい。僕は180分間圧倒され続けた。ただし多少の予習は必要だ。原爆は核分裂だが、水爆は核融合も利用する。破壊力は圧倒的に違う。アインシュタインはマンハッタン計画にどう貢献したのか。量子論の基本は重ね合わせ。その程度は予習しておいたほうが、映画を絶対に楽しめるし深く理解できる。
ノーランは時おり策に溺れる監督だとの印象を持っている。『テネット』は何度も挫折して、いまだに最後まで観ていない。でも今回は、ノーランの策が見事に結晶化した。広島・長崎の惨状も、直接的な描写がなくてオッペンハイマーの一人称で描かれるからこそ、深く強く想起できる。つまりメタファー。映画の本質だ。
広島・長崎への原爆投下については、戦争を終わらせたと肯定するアメリカ人は少なくない。そして共産主義に対しては、今も多くのアメリカ人は嫌悪を隠さない。アメリカの戦後史における二つのタブーを、意図したかどうかはともかく結果として、ノーランは正面から侵犯した。
もう一度書く。本作は徹底して映画だ。ノーランに、余計な野心はない。でもあなたは映画的野心を目撃する。

引用はここまで。あらためて説明するまでもないけれど、『オッペンハイマー』は公開前から、そして公開後も、被爆地である広島・長崎の描写がないとの批判が絶えない。確かに直接的な描写はない。でも映画的にはしっかりと描かれている。これ以上何を求めるのか。そう思っていたときに、ジョナサン・グレイザーが監督した『関心領域』を観た。これについてのレビューは以下です。

アウシュビッツ強制収容所を訪ねたとき、親衛隊将校で収容所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスの家に案内された。
高い塀と鉄条網で囲まれた収容所のすぐ外にヘスの家はあった。家屋はない。今は敷地だけだ。振り向いて気が付いた。目の前に高い煙突が見える。ユダヤ人の遺体を焼いた焼却炉がすぐ傍なのだ。
本国ドイツから妻と5人の子供を呼び寄せたヘスは、この敷地に瀟洒な家を建てて家庭菜園を作り、仲睦まじく暮らしていた。でもヘスが使用を決定した毒ガス「チクロンB」で殺戮した遺体を焼く煙は、この家にまで漂ってきたはずだ。
収容所内に展示されたユダヤ人犠牲者の靴や鞄などの遺品、チクロンBの大量の空き缶、生地に加工する予定で刈られた2dのユダヤ人女性の髪などを見つめながら、当時のドイツ国民の多くは残虐で冷酷だったのかと考える。もちろんそんなはずはない。誰もが誰かの親であり子供だった。夫や妻を愛し、両親や子供たちを大切にしながら、彼らは殺戮業務に従事した。組織の一部になったとき、人は善なるままで人を殺す。それをつくづく実感する。
『関心領域』は音の映画だ。映像はヘスの家族を中心としたファミリードラマ。そこにユダヤ人たちの悲鳴や絶叫、処刑される銃撃の音などが絶え間なく重なる。ただし強制収容所内の映像は一切ない。だから想像する。塀の向こう側で何が起きているのか。何が繰り返されているのか。
この連載で『オッペンハイマー』について書いたとき、被爆した広島と長崎の描写がないとの抗議や批判の声に対して、僕は見当違いだと反論した。映画の本質はメタファーだ。ない物を想起させる。これが届くとき、その意味やメッセージは(見せるだけよりも)はるかに強く届く。帰結として『オッペンハイマー』は、戦争終結を理由に原爆使用を正当化するアメリカ人に対して、抑止力として核兵器の保持は当然だと考える世界の多くの人たちに対して、とても強い反核のメッセージを届ける映画になっている。
ファミリードラマと並行して本作には、組織の一部として勤勉に働くヘスの日常も描かれる。昇進や異動、部下の掌握や上司からの評価。ベルリンに栄転が決まるが引っ越しを嫌がる妻。やむなく単身赴任。
……今の会社や役所で働く人たちの日常と何も変わらない。違うのは業務内容だけ。目的は殺戮なのだ。でもならば、現在の兵器産業で勤勉に働く人たちと彼らは何が違うのか。処刑される直前にヘスは、「私はそれとは知らず第三帝国の巨大な虐殺機械の一つの歯車にされてしまった。その機械も既に壊されてエンジンは停止した。だが私はそれと運命を共にせねばならない。世界がそれを望んでいるからだ」と手記に残した。
善と悪は対立しない。入り混じっている。だからこそ被害と加害も簡単に反転する。でも人はそれを学ばない。悪の存在を求める。自分を正義や善の側に置くために。こうして今、かつて殺戮されかけた人たちが殺戮する側に反転したパレスチナ自治区ガザ地区の現在を塀の向こう側として、僕たちはこれまでと同じように、グルメやエンタメや家庭菜園に熱中する日常を送っている。

この2つのレビューを読んでもらえれば、もう付け足すことはないのだけど、洋画や韓国映画がどんどん進化していると感じる一方で、邦画が取り残されていると感じる理由のひとつは、明らかに説明過剰が加速しているからだと思います。
世阿弥の「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」を持ち出すまでもなく、表現の本質はメタファーだと僕は思っています。でもテレビは違う。とにかくわかりづらさや複雑さを嫌う。
理由はわかります。僕もかつてテレビで仕事をしていたから、内容が少しでもわかりづらかったり複雑だったりすると、視聴率はてきめんに下がる。何度も体験しています。
なぜならテレビは、「ながら視聴」を前提としているから。ご飯を食べながら。家族で団欒しながら。ビールを飲みながら。今の僕のようにパソコンのキーボードを叩きながら(夕方のニュースを観ています)。そんな視聴者たちに思考や煩悶を要求したら、その瞬間にチャンネルを替えられてしまう。
しかも、対価を要求しないメディアであるからこそ、テレビは老若男女を対象にしなければいけない。つまり万人受けを目指さなくてはならない。
こうしてテレビは「わかりやすさ」を最優先順位に置きながら、「秘す」ことが何よりも苦手なメディアとなり、その文法や方式が、なぜか日本の場合は映画にまで侵食してしまった。
補足するけれど、昨年公開した『福田村事件』も、明らかに説明過剰です。そうなってしまった理由については割愛するけれど、本来なら偉そうに言えるような立場ではないことは自覚しています。
ロバート・オッペンハイマーについては、映画を観て、とにかく弱い人間だったと僕は実感しました。だから広島と長崎の凄惨な悲劇を直視できなかった。1960年に初めて日本を訪れたとき、京都や大阪には足を運んだけれど、広島と長崎には行っていない。記者会見のときに記者から「行かないのか」と訊かれて「行かない」と即答したようです。それは冷たさなのだろうか。最後に、この6月20日に報道された情報を、NHKニュースデジタルから引用します。

オッペンハイマー "涙流し謝った" 通訳証言の映像見つかる
原爆の開発を指揮した理論物理学者、ロバート・オッペンハイマーが、終戦の19年後に被爆者とアメリカで面会し、この際、「涙を流して謝った」と、立ち会った通訳が証言している映像が広島市で見つかりました。

証言した通訳の名前はタイヒラー曜子さん。被爆者を前にしたオッペンハイマーがどんな様子だったかを、通訳として立ち会った曜子さんが語ります。

通訳として同行したタイヒラーさんは、訪問団の1人で、広島の被爆者で理論物理学者の庄野直美さんなどが非公表でオッペンハイマーと面会した際の様子について「研究所の部屋に入った段階で、オッペンハイマーは涙、ぼうだたる状態になって、『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』と本当に謝るばかりだった」と述べています。

泣きながら「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」と謝るばかりのオッペンハイマー。映画を観たからこそ、その情景が目に浮かぶ。
オッペンハイマーを人類に火を与えたとされるプロメテウスに喩える人は多いけれど、むしろプロメテウスの弟で、多くの災いが入った箱をあけてしまうパンドラの夫であるエピメテウスなのだと思う。ちなみにプロメテウスの名前の意味はプロ(先に)メテウス(熟考する)。そしてエピメテウスの意味は、エピ(後から)メテウス(熟考する)。
でもオッペンハイマーがどれほど泣いて悔やんでも、人類が核兵器を手にしてしまった歴史は変わらない。レビューにも書いたけれど、核抑止論の欺瞞と矛盾に対して、世界(特に日本)は、しっかりと直視すべきだと思います。

森達也

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