現代書館

WEBマガジン 26/05/07切通理作


第9回 特撮作品の「評価軸」変遷史と、「顔」となる人物(下)

■怪獣を作ってくれるおじさん
 スターとしての怪獣だけではなく、その立役者としてのスタッフの名前に注目したきっかけ。私にとってそれは、円谷英二さんでした。特撮の監督のパイオニアとして知られ、円谷プロの創始者でもある円谷英二さんは1970年に亡くなりますが、ご存命の時代に出た怪獣関連の書籍の多くに「監修」という形で名前が冠せられています。
 亡くなった後は、英二さんの長男で、円谷プロを引き継いだ円谷一さんの名が「監修」クレジットされることになります。私は現役世代としては、そこに該当しますが、友だちの家に行った時など、そのお兄さんのお下がりの怪獣書籍などで、目にしていました。
 私が憶えているのは、『豪華版 学習怪獣大辞典』(ミュージック・グラフ刊)です。この表紙には監修として、「理学博士・小畠郁生」とともに「特撮監督・円谷英二」の名前があったのです。そして本の中には、英二さんの顔写真と経歴が載っていました。たぶんそれを開いた時、友だちの親か兄姉から、「ゴジラやウルトラマンは『円谷英二』という人が作っている」という補足的な話題があったのだと思います。
 ちなみに、「円谷英二」監修時代の怪獣書籍や雑誌グラビアでは、ゴジラの東宝とウルトラの円谷プロのキャラクターが当たり前のように混載されている事も多くみられました。前者の特技監督であり、後者の代表である円谷英二さんは、世間で「特撮の神様」とみなされていて、私にとって、「怪獣を作ってくれるおじさん」だったのです。

■私が見ていたのは「特撮映画」だった
 「怪獣映画の二大メジャーは円谷英二が作っている」とだけ思っていた私に、意識改革を促したのは、79年、有文社から出た『大特撮 日本特撮映画史』です。編者の「コロッサス」とは、まさに当時の同名同人誌を作っていたメンバーでした。
 この本で、私は「怪獣映画」とは、特撮映画の1ジャンルなのだという事をあらためて捉え直しました。元々、たとえば東宝特撮映画の『地球防衛軍』(同書では「超科学戦争」にジャンル分けされていました)『妖星ゴラス』(「パニックスペクタクル」にジャンル分けされていました)など、怪獣が出てくるので怪獣図鑑的な書物には掲載されているものの、テレビ放映された時に実際観てみると怪獣が中心でない映画の存在は知っていました。
 この本は大きく二章から成り、一章は特撮映画の代表作と呼ばれる作品から、その特撮場面が作品の全体にどのような効果をおよぼしているのかが書かれていました。「特撮」という観点から映画を捉える視点がここで生まれました。二章では、日本映画の黎明期から、特撮スタッフがどのように育ち、世代を繋いで技術を受け継いできたのかを、具体的な人名、会社名を挙げながら、その流れを辿っていました。
 同書を読んで、私の中に「特撮映画史」というものが流れ込んできました。
 同じ年に出た『月刊マンガ少年別冊 すばらしき特撮映像の世界』(朝日ソノラマ刊)では、「第一線の特撮マンが一同に会し」たというフレコミのもとに座談会「日本の特撮はまかせておけ?」が掲載され、東映の矢島信男、東宝の中野昭慶、円谷プロの高野宏一、佐川和夫の特撮監督たちと、視覚効果技師の中野稔の各氏がメンバーに入っていました。
 それらの知識を通して、私は「円谷英二監修」の名のもとに「特殊技術」名義で実質各回の特撮監督を担っていた人たちの名前や、自分が子どもの頃何気に観ていた番組にも、円谷英二を始め、各社の特撮マンの流れがいくつもの枝分かれを見せていることに気付かされました。

■生きている「伝統」
 そうやって、円谷英二さんから始まり、円谷さんだけではない特撮マンを知り、次にドラマ部分を担当し、作品そのものを完成させる権限を持つ本編監督への関心が高まります。
 これは、アニメ誌において、宮崎駿さんよりも前に、宮崎さんの共働者でもあった作画監督の大塚康生さんの特集の方が先に組まれたこととも、通じているものがあると思います。もちろん、青年層のアニメブームの嚆矢は声優人気と相まっていたのは言うまでもなく、ファン心理としてはまずキャラクターに近づきたいという心理が生まれ、徐々に全体像へと興味が広がっていくものなのかもしれません。
 特撮の話に戻れば、怪獣デザインの成田亨さんや、造型の山良策さんもまた、番組の放映中から知られた存在でした。成田さんの未来的なシャープさ、山さんの温かみのある造形センスは、それで育った自分からすればまさに「揺り籠」です。
平成になってからは、ゴジラの後を追うようにガメラ、ウルトラマンと巨大特撮の新作が見られるようになりますが、それらをアナログ時代の最後のピークとして、特撮はVFXつまりCG等デジタル技術による合成主体にとって代わる予感が、だんだん強まっていきます。
 そこに逆行するかのように、アナログ特撮の価値が見直されるようになり、爆発効果や電飾、ミニチュア制作などの、もし完全にデジタル化してしまった場合、消えゆくことが予想されるスタッフの仕事への再評価が始まっていきます。
 この流れは、昭和の特撮を見て育ち、長じてスタッフとなり、現場の「師」となる人々のもとで働き、生きた継承を受けた世代による営みとも言えると思います。その営みは新作の制作においても、いまだ現役で支えられ続けている技術なのです。

■「これから徹夜です」
 特撮監督から本編監督への評価軸の広がりに話を戻すと、79年に、テレビシリーズ『ウルトラマン』の再編集版として作られた『実相寺昭雄監督作品 ウルトラマン』は、学園祭などに貸し出された『ウルトラマン』のフィルムの内、最も人気が高かったのが実相寺作品だったからだと聞きます。
 照明を落としてギリギリまで暗くする。あるいは暗闇から対象を覗き込んでいるかのような、極端なローアングルで捉える人物は、その間にある障壁物を大きく映してしまう。かと思えば、美女の顔でも毛穴が写るほど大きく寄っていく。通常ならアップとズームで切り替わるところを、レールを用いた移動撮影で、それが「撮られている」事を意識させる。
画調からカメラアングルから普段の回とは違う、逆に言えば「わかりやすく『変わっている』」実相寺ワールド。自主映画でも撮っていようものなら、すぐさま真似したくなるような構図でした。
 そしてウルトラマンが決め技のスペシウム光線を使わず、通常回ではクライマックスに一度だけ変身するウルトラマンが複数回登場するけれど決定打にはならない。怪獣が所謂「カッコイイ」スタイルではなく、戦い甲斐がなかったり、倒すのに忍びなかったりする。
 実相寺監督は必ず、担当作品の脚本は佐々木守さんに頼んでいました。ヒーローが颯爽と怪獣をやっつけるのではない佐々木さんのストーリーと、常識的な画面効果を大きく逸脱する実相寺演出が相まって、独特の世界を作り上げる。
 実相寺監督は、最初の『ウルトラマン』では一本も組んでいなかった、メインライターで企画者でもあった金城哲夫さんへの思いを込めた原稿を「潮」という雑誌に書いています(1982年6月号掲載「ウルトラマンを作った男」。後に単行本『夜ごとの円盤』大和書房刊に収録)。
 金城さんという人が当時アメリカ領であった沖縄から本土に渡ってきた事。その葛藤。ウルトラマンが必ずしも金城さんの本意の通りに生み出された存在ではなかったかもしれない事。にもかかわらず、ウルトラマンには金城哲夫その人の明るさ、伸びやかさが表れており、同じウルトラ作品でも、一度沖縄に帰った後に手掛けた作品には陰りが見られる事。
 原稿の締めくくりにあった「ウルトラマン。本籍地、沖縄。/やはり、私は、こう記入したい」という文章は、忘れられません。
 そして文中の証言者でもあった、金城さんと同じ沖縄出身の脚本家である上原正三さんは、60年代の初期ウルトラを実相寺さん、金城さんと担った、私にとっては「伝説の人」であり、かつ、その後もずっとヒーロー番組を書き続け、80年代当時においては現役作家であり、まさに「生ける伝説」でした。
 上原さんご本人を最初に目にしたのは1983年、『ウルトラセブン』を振り返るイベントが中野富士見町の「planB」というスペースであった時でした。
 上原さんは司会である池田憲章さんから話題を振られ、小一時間ほど『セブン』の話題をされた後、帰っていかれましたが、出る時にこう締めくくりました。「いま『宇宙刑事シャリバン』書いてます。これから帰って徹夜です」。
上原さんは『シャリバン』の制作費を明かし、15年前(当時)の『ウルトラセブン』と同じであると述べました。「当時はその値段で家が買えました。いまは買えません。でも僕らは、『セブン』のスタッフに負けない思いで作ってます。『シャリバン』を見て下さい」
 上原さんにとって、60年代ウルトラという「過去」の栄光は「現在」の好敵手でもあったのだと、私は思いました。
 むろん僕は当時『宇宙刑事ギャバン』に続く『シャリバン』を毎週見てはいたし、スーパー戦隊シリーズにも親しんでいました。しかし、名作としての評価が高まりつつある過去作に比べて、正直毎回身を乗り出して見ていたというほどではなかったのも事実です。
過去の、既に評価が定着した作品なら、ある程度おおっぴらに「観てます」と語れても、いまの番組を観ていることに、「いい歳して子ども番組でもあるまい」と、自分自身どこかまだ思い切りが足らない部分があったのでしょう。
 しかし、上原さんその人を初めて目にした晩を境に、僕の観る姿勢はどこか変わったと思います。
 毎週毎週のヒーローの戦いの裏には、時には徹夜で取り組んでいる上原さんの姿がある。シナリオのページ一枚、シーンの一つ一つをおろそかにしない思いがある。
 60年代の作品からずっと、あの時点の「いま」まで、やり続けている人が居るんだという感動がありました。同時に、上原さんが気持ちに火をつけてくれたおかげで、子ども番組、ヒーロー番組の作り手全員に、リスペクトの気持ちを持てるようになっていったのです。
 「『シャリバン』見て下さい」という上原さんのメッセージは、自分についてのことだけではなかったのだと思います。それが伝わったのです。
 このすぐあと、「宇宙船」誌で上原正三特集が組まれ、「宇宙船文庫」として金城哲夫さんのシナリオ集『ノンマルトの使者』が刊行、続いて同枠で上原正三さんのシナリオ集『24年目の復讐』、相前後して、大和書房からは佐々木守さんのシナリオ集『ウルトラマン怪獣墓場』が刊行されます。
 当時は山田太一、倉本聰のシナリオが書籍化され、「シナリオ文学」として定着し始めた時期でした。市川森一さんの作品もその流れでいくつか書籍化されましたが、子ども番組時代のそれはまだ刊行されていませんでした。
 私は市川さんの特集をしたZINEでインタビューとしてお話を伺った御縁で、その後入った出版社で子ども番組時代のシナリオ集『夢回路 市川森一ファンタスティックドラマ集』を出しました。作品選定も自分に任されました。また、「月報」として、市川さんと仕事をしたプロデューサー、監督、脚本家の皆さんに取材をしました。この時の体験が、後の自分の色んな取材の礎となりました。
 相前後して、講談社から出た『ウルトラマン大全集U』(「テレビマガジン特別編集」)の中で、『ウルトラセブン』の途中から、『ウルトラマンレオ』の企画段階までのウルトラシリーズを担当したプロデューサー・橋本洋二さんと、上原正三さん、市川森一さんの鼎談が掲載されました。
 ここでは、『帰ってきたウルトラマン』に根性ドラマの要素を入れた橋本洋二プロデューサーの持つ「テーマ主義」に市川さんが反発した事が語られています。シリーズの第一作『ウルトラQ』の、人智を超えた不思議な世界におののく姿勢にこそ、ウルトラの本質があるという価値観を市川さんは持っていました。
 それはウルトラシリーズの立ち上げで企画者兼脚本家であった金城哲夫さんを、メインから追いやることにつながったことが語られます。『ウルトラセブン』と『帰ってきたウルトラマン』の間に位置し、橋本さんと金城さんの方針の違いが明確になった『怪奇大作戦』で、金城さんの郷里・沖縄の悲劇である対馬丸事件(昭和19年に学童疎開船対馬丸が米潜水艦の攻撃を受けて撃沈され、1484人が犠牲となった悲劇)を題材にした亡霊目撃事件をシナリオにする事を金城さんに勧めたけれど、金城さんは書けなかった‥‥というエピソードも、ここで橋本さんによって語られます。
 昭和のウルトラマンシリーズには、時代の断層がくっきりと示されていたことに、あらためて気づいたのでした。


■「ないもの」と「あるもの」
『ウルトラセブン』の第43話「第四惑星の悪夢」のテレビ版と漫画版の違いについて、神谷さんは前回、こう書いています。

桑田次郎によるマンガ版『ウルトラセブン』「第四惑星の悪夢」では、冷血的に星を統治するロボットに対抗し、「第四惑星をあたたかい心でつつまれた世界にする」ことを望んでいる赤い血同盟という、反体制的な人間が描かれますが、映像作品にはないこの人たちを描くことで、映像作品で描かれた、弱者であると認識しつつも、危険を顧みず同胞を救おうとする人間たちの心情に思いを馳せることができます。
恣意的な解釈と言ってしまえばそれまでですが、このようなことは、脚本を設計図にしつつも、映像監督の問題意識が投影される映像作品、あるいは映像作品をもとにしつつも、大幅な翻案の見られるコミカライズ等にも見られ、元となる物語に対する批評性によって、作品に内在しつつも映像作品では発露されなかった核心的な部分が見えるようになるということが大いにあり得ると思っています。

「第四惑星の悪夢」は、地球にそっくりなのに人間が機械に支配されている星を描いた作品です。最後にウルトラセブンが活躍するところで、上原正三さんの書いたシナリオ版では、第四惑星の人間たちがレジスタンスよろしく蜂起します。漫画版ではテレビの完成作よりも前にシナリオが渡されることが、特に番組後半では多かったと推測しますが、漫画の「赤い血同盟」はそこからの着想かもしれないと私は思います。
私は映像化された「第四惑星の悪夢」で展開される、地球と同じ風景でありながらアングルや陰影で異質な空間に見せる実相寺演出に魅了され、幾度も見返しているのですが、一点だけ疑問があったのは、ラストにセブンが登場した途端、その圧倒的な力でアッという間に第四惑星の武力を鎮圧してしまうことでした。しかし『上原正三シナリオ選集』(現代書館)に収録された原稿を読み、そこには民衆の、セブンの力を借りながらも自ら立ち上がる姿が描かれていたのを知ったのです。
予算の問題もあったのかもしれませんが、民衆の蜂起を通したストレートな表現には馴染めない実相寺監督の体質も無視出来ないものとしてあったのではないかと私は思いました。ひょっとしたら、実相寺監督の背景には<民衆>というリアリティは稀薄だったのだろう……とも。
しかし上原さんのシナリオ選集が刊行された2009年。実相寺監督は既に鬼籍に入られていました。そこで、この件について当時はご存命だった上原さんに訊いてみました。
「それは僕の立場に近い見方です。実相寺さんは、やっぱり満州で生まれ育ったことと無関係じゃない気がする。彼は満州から引き揚げたんですよ。実相寺はまだ子どもだったけど、満州に住んだ大人たちはああいう傀儡政権まで打ちたてたわけで、一種の侵略者だからね。ただ、彼はまたそういう民衆臭さのないところに味がある。僕とは対極の世界ですよ。それがまた実相寺らしくて支持されるところじゃないですか」(上原正三発言。2009年、切通による取材より)
 高度成長の表の顔である光輝く未来像の、裏側にある暗闇に目を向けながらも、ベタベタした生活観がなく、どこか乾いているのが実相寺監督の映像世界でした。

技術もお金のかけ方も、「民衆」のあり方も、あれから六十年余り経って、当然変化は著しいですが、その一方で、ゴジラもウルトラマンも、そして「怪獣」という概念も、いまだに生命力を持っている事に、驚かされます。
変わったもの/変わらないものをどう乗り越えてきたのかを含めて、次回以降の提案ですが、お互いに、「この作品が重要」というものを「映画篇」「テレビシリーズ篇」(「シリーズの中のエピソード主体になってもよいと思います」)というようなかたちで、比較的詳述するというやりとりを、何回かさせて頂くのはいかがでしょうか。
既に神谷さんが語っている作品でも構わないと思いますし、この際被らないようにという角度で選んでいただいても良いかと思います。
選出理由として、トリビアというよりは、現在までの特撮作品の流れにとってエポックになったとお考えだったり、重要な視点の提示なので今こそ着目すべきという観点でなされると、今後の背骨になるのではないでしょうか。

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