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第2回 分断を乗り越えて「怪獣」「ウルトラマン」と出会い直すために |
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神谷和宏さま
■怪獣は「環境」だった
神谷さんの子ども時代からのウルトラマンや怪獣の視聴体験を伺ったので、私もそこから書くべきなのでしょうが、いざとなるともうひとつ積極的になれない気持ちがあり(これについて思い当たるところは後述します)、また語るとなると、それだけで一回分を使ってしまいそうなので、あくまで、あらためましての自己紹介として話の枕にしたく思います。
私にとってリアルタイムのウルトラマン体験は、小学校2年生の4月に始まった『帰ってきたウルトラマン』(1971〜1972)からです。その前は、幼稚園時代から『ウルトラマン』『ウルトラセブン』に再放送で親しんでいたし、友達と一緒にウルトラマンごっこ(私たちの間では「怪獣ごっこ」と呼んでいました。それは当時、怪獣の活躍する番組がウルトラマンシリーズだけではなかったからだと思います)をやったりしていたので、感覚的にはあまり作品の順番が前後しないで認識してきたことになると思います。
でも、ゴジラやガメラをはじめとする映画の怪獣や、『ジャイアントロボ』『マグマ大使』『スペクトルマン』など、ウルトラマンシリーズ以外に登場したものも含め、怪獣は、図鑑が出来るほどの数になっており、子ども向けの「データベース文化」のひな型の成立とともに育った世代ということにもなります。
60年代の講談社から70年代の小学館に引き継がれた、怪獣の図解や足跡の図示、身長体重出身地といったスペック(それ自体、大伴昌司さんのような当時の出版人のパイオニア的仕事でもあります)は、子どもの自分にとって、番組の中の世界を、架空と知りながら探求し、アクセスしたいと思わせるベーシックなものでした。植物図鑑や昆虫図鑑のシリーズに、怪獣図鑑があった時代です。
デカさや強さ、その割にある愛嬌や、最後を遂げるときの哀愁、デザインに込められた単なる生物モチーフの再現に留まらない宇宙観、着ぐるみという表現の制約がもたらす味わい等々……自分が怪獣を好きになった理由を、後付け含めていろいろ述べることは出来るでしょう。しかし〈怪獣〉がひとつのワールドを形成する情報環境そのものであった当時の空気の中に居たということが、案外、理由としては一番的を得ていたりするのかもしれないと思っています。
そんなある日、本屋の店頭で見つけた『原色怪獣怪人大百科』(ケイブンシャ)で以後毎年刊行され続けたシリーズの最初の一冊)は、映画・テレビを問わず新旧の怪獣が可能な限り網羅的に収集され写真とともに紹介されたもので、私はこれをどうしても欲しくなりました。そして小学校2年生の2学期に1日も休まなかったご褒美に親から買ってもらったのです。それぞれの怪獣の項目に、登場作品の放映日や公開日までもが記されているのを読んで、私は自分の生年と照らし合わせ、その何年前なのか後なのか、時間感覚を測っていました。
その感覚は大人になった今でも残っていて、たとえば「昭和39年」は最初の東京オリンピック、首都高開通、新幹線開通の年であり、私的には自分の生まれた年であるとともに、キングギドラがデビューし、ゴジラのデビューから10年経った年である……ということが即座に照応されてしまうのです。
私より一回り近く若く、1973年にお生まれになった神谷さんが前回書かれた「ウルトラマンと怪獣」体験は、すでに多様化した児童文化の中から、積極的にそれへと興味を持ち、選び取ってきたという能動的な姿勢を感じます。 対して私にとっての「ウルトラマンと怪獣」体験は、大人になっても忘れないという意味では私自身の特性があるかもしれないのですが、少なくとも初期においては、「子ども時代の環境」そのものであったと言えるのかもしれません。
※注 大伴昌司(おおとも しょうじ、1936-1973年)。 編集者、SF研究家、映画評論家。『怪獣大図鑑』(1966)、『怪獣解剖図鑑』(1967、ともに朝日ソノラマ)など著作多数。「怪獣博士」との異名もとる。SFに造詣が深く、日本SF作家クラブの事務局長も務める。後年は少年誌のグラビアの構成で新境地を開拓するなど、幅広い分野で活躍した。
■「世代体験」の強迫から解き放れる
とまれ、ここで冒頭の「ウルトラマンや怪獣の視聴体験を語るのに積極的になれない事情」に触れなければならないと思います。 というのは、先ほど書いた通り、私自身はリアルタイムで観たウルトラマンは『帰ってきたウルトラマン』が最初で、初代『ウルトラマン』が放映開始された1966年にはまだ2才。本放送の記憶はないのです。 そんな私は、大学時代などに、よもやま話で子どもの時に見ていたウルトラマンの話題になると、よく、私より数年早く生まれた先輩から、「初代ウルトラマンに本放送で出会った体験がいかにすごかったか」と聞かされるのに、やや辟易してきたというところがあるのです。
バルタン星人との2度の戦いで寿命を縮め、ゴモラ、ケロニア、ザラガスと、以前よりも強敵になっていく怪獣と戦ってきたウルトラマン。また、多々良島の怪獣たちのチャンピオンたるレッドキングを素手で倒したり、バニラを溶解液で溶かしたアボラスとのまるでコロセウムのような国際競技場での飛び道具の撃ち合い、怪獣軍団を引き連れて攻勢をかけようとしたジェロニモンや、過去の3大宇宙人を従えているメフィラス星人といった、同じ回の中で勝ち上がってきたか、もしくは他との格の違いを見せつけてくる相手との一騎打ち。
そんな戦いの中で、時には一度は敗北したり痛み分けになったりもしながら、自らの息の根を止められることだけは決してなかったウルトラマンが、最終回でついにゼットンに倒された時の「真のショック」は、本放送で初めてそれに出くわした人にしか、わからないのかもしれません。
それは現実に、連戦連勝のたとえば拳闘選手を応援してきたファンが、リングサイドで初めての敗北を目の当たりにするショックに等しいものだったのでしょうか。 迎えにやってきたゾフィーとともに宇宙に帰っていくウルトラマンを見て、窓から見える空に向かって本当に「さようなら」と叫んだんだぞ、お前に子ども時代の俺の気持ちがわかるか。それがわからないのなら、ウルトラマンを知っているとは言えないんだ……そう言われれば、黙って聴いているしかない。
その先輩の言い分は、ある意味正論なんです。
ウルトラマンが最後に敗北するのも、その相手がゼットンなのも、もう一人のウルトラマンであるゾフィーが登場するのも、私は最終回を実際に観る前から知っていました。そう。怪獣図鑑世代の「情報」として。
「お前はただの現在に過ぎない」という言葉が、テレビマン自身による著書のタイトルにもあるごとく、テレビというものは、次々と更新される「情報」に、そのつど出会っていくリアルタイム性が肝要であり、後追いは後追いでしかない。
『ウルトラマン』の高視聴率が戦後テレビ史に残るものであるならば、当然そうしたリアルタイムの体験を史上価値とする見方も、肯(うけが)われなければいけません。
しかしだからといって、自分がテレビの前で受けた興奮、感動もまたそれぞれ一回性のものであり、捏造された原体験でもなければ、そのコピーでもないのです。
ウルトラマンシリーズが常にその時点での新番組であるということは、その時の「いま」にどう対峙しているのかのあらわれであると思います。と同時に、時代を超えて愛されている以上、「世代体験」ばかりを特権化するのも、話を狭くしているように感じます。
本放送での視聴であれ、再放送の視聴であれ、あるいはソフトや配信でのそれであれ、本質的には分断すべきではないというのが私の考えです。
■それぞれの「かけがえのなさ」
また、自分にとってウルトラは『セブン』までなんだとか、『帰ってきたウルトラマン』までなんだとか、そういう個々のこだわりによる「分断」もあります。平成以降と昭和との「分断」もあります。
もちろん、それは個々の自由ですし、自分にとっての「その時だけの体験」を大事にするという心持ちに、誰はばかる必要もありません。
私も、それぞれの「かけがえのなさ」に耳を傾けたい気持ちがあります、そして同じ人が、あるきっかけで、同じウルトラマンの他の作品にも興味を持つきっかけとなる対話をも持てることが出来たら、素晴らしいなと思います。いま講談社から連続刊行中の「ウルトラ特撮 PERFECT MOOK」の巻頭で連載させて頂いているコラムは、円谷プロの全作品をテリトリーにするものなので、ある作品にこだわりを持つ人に、まだ観ていない他の作品にも興味を持ってほしいと思って書いています。
世代体験が重要であるとともに、世代を超えて語り合える可能性を持つツールが、ウルトラマンシリーズなのではないでしょうか。
私は、平成以降のウルトラマンをリアルタイムで観て育ってきた、いまの若い特撮ファンと接する機会も多いのですが、昭和のある種意固地な人たちより、彼らを前にしている方が、自在に過去と現代の事象を往還して語れる自由さを感じるんです。「やっとこういう時代が来たか」という思いもあります。
いまの「ニュージェネレーション」シリーズといわれるウルトラマンは、これまでのウルトラマンの能力を使って戦います。登場する怪獣・宇宙人も過去のキャラクターが多い。元の作品を知っていた方が、細かい演出の工夫に気づくことが出来て、一つの作品を重層的に楽しめるのです。
■『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』を読んで
神谷さんの著書『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』に触れ、多くはウルトラマンを知らない生徒たちに、任意のエピソードを観る機会を提供するという授業のありようを垣間見た際も、「世代体験」の断絶を飛び越えて、作品自体の問いかけるものについて話し合っていく、素晴らしい機会だなと思いました。
神谷さんが選んだエピソードは、昭和作品だけに偏ったものではありませんし、アニメで作られた『ザ・ウルトラマン』のエピソードも含まれ、まさに縦横無尽です。
ご著書『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』では、『ウルトラマンメビウス』(2006〜2007年)での後半の展開について綴った部分で、オルデガの『大衆の反逆』を引き、大衆が一市民という権力者となってふりかざすエゴイズムの問題に触れています。昭和のシリーズの放映時にはまだ人々の中にあった「公共のためによりよい自分であれ」という意識が希薄になり、自分が自分であるだけで尊く、他者に対してはひたすらクレーマーのごとき態度をとってはばからない姿が、作品の中でも象徴的に描かれているとしています。それはオルデガのような人には予見されていたのでしょうか。
「守るべき民衆」はいつでも正しいのか?という問題には、昭和のシリーズでも時折目が向けられていましたが、それがより身近な、我々自身のものとして感じられる……つまり、平成になってからのウルトラマンだからこその焦点のありようが、ここでは浮き彫りにされていると思いました。
そして令和のいま継続中の「ニュージェネレーション」シリーズのウルトラマンで、正義と悪のありようを問うたり、怪獣や宇宙人つまり異形・異質なものを必ずしも叩くのがよいことではないんだよということが、個々のエピソードに留まらずシリーズを通して問いかけられているのは、怪獣の人形を主力商品にしたいから……というだけでは必ずしもないのでないか。
やはり、ウルトラマンと名の付くものを手掛け、それに恥じないものを作ろうとするとき、当事者となった人たちは自分の胸に手を当てて、真摯に臨んでいるのだろうと思うのですが、そんな時、社会の目として、たとえば神谷さんのような学校の先生がいるということは、無視できないものとしてあるのではないかと。
神谷さんは、怪獣や宇宙人というだけでそれを敵視した人間の偏狭さから起きた事件を、ウルトラマンがきれいに解決できないことをあえて示したドラマを子どもたちに観せて「君がもしそこにいたらどうする?」と問いかけているようにみえます。
昭和のウルトラマンで脚本を書いていた一人である市川森一さんは、私が会いに行ったとき、こうおっしゃいました。「政治家にでもなるのならともかく、普通の大人になっていくのだったら、ウルトラマンから正義を教えられるような子どもはロクな人間にならない。僕は『世の中には、解決できない問題がある』ということを、知ってもらいたいと思って書いていました」
そのことは、神谷さんが読んでくれたという私の著書でも触れていますよね。 実は、上の発言をうかがった時、市川さんは、次のようにも語っておられたのです。
「当時、作家として同時代の児童文学も意識していました。それらに比べて、僕らの書いているものは『俗悪』で、子どものためにならないと言われていることも意識していた。どこかやましい気持ちがなかったと言うと嘘になる。でも僕らは、親や先生が『よいもの』として与えたんじゃなくて、子どもが自分で選んで観ているものを書いたんだという自負は持っていましたよ」
なにも私は、神谷さんのような「学校の先生」がウルトラマンを教材に使っていることを指して、「市川さんたちが『誇り』に思っていた部分と正反対なふるまいじゃないか」などと否定したいのではありません。
ただ正直なところを言えば、神谷さんの存在を風の便りに知ったとき、私の中にそうした疑念が生まれなかったかと言えば、嘘になります。
しかし神谷さんの本を読んで、実際の授業は、決して「教養化した存在として、ウルトラマンのすばらしさを教える」ための時間ではなく、また「ウルトラマンを通して正義を教える」のでもなく、一つの正義が別の視点からは違う風に見える例として差し出し、「それでも君の視点は変わらないのか?」「君も同じ立場になったら、どうふるまうことが出来るのか?」という生徒自身の意思を問うているのだということがわかりました。
当然、令和となってすぐに我々が見舞われた全世界的な危機状況であったコロナ禍に対する認識が、SF作品で描かれてきた「君はどう行動するのか」「人間の視点の限界とは何か」という寓話性とどうリンクするのかなども、神谷さんとはおおいに語り合っていきたいですし、この往復書簡が続く中でも、その機会が持てればと思っています。
■ウルトラマンのジレンマ
私自身、子どもの頃、教会の日曜学校で「好きなものは?」と問われ「ウルトラマン」と答えた時、「たとえば船が沈没したり大事故が起きて人がたくさん死んだ時、『ウルトラマンが居れば、助けてくれる』と思ってしまうんじゃないか。そんな都合の良い存在は現実には居ないということを知らなければいけないよ」とお説教されたことがありました。 これは、ウルトラマンのようなヒーローものに対して、まともに観たことがない大人が普通に持つであろうステレオタイプなイメージだと思います。
何もかも都合よく解決してくれるヒーローを待望する心を「消費」し再生産している、テレビの「俗悪」を体現するような番組……それが、当時の一般的な大人たちのウルトラマン像だったのではないでしょうか。
しかし実際の作品を見ていると、怪獣は倒せても、その怪獣が暴れるまでになった状況を生み出すものに対しては、何も出来ない特捜チームの葛藤が描かれたり、ウルトラマンが登場しても、状況ひっくるめて解決することは出来ないのだということが、作り手にとっては、「超えてはいけない一線」のように守られていることに気づきます。
たとえば『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』でまず最初に挙げている『ウルトラセブン』での、人類の核実験の犠牲となった星から復讐にやってくるギエロン星獣が敵となる「超兵器R1号」や、地球と衝突コースをたどるペガッサ星人の宇宙都市を爆破せざるを得ない「ダーク・ゾーン」も、ウルトラセブンであるモロボシ・ダンが変身した姿で調停すれば、避けられた可能性は大きい。
子どもの時「なぜセブンになって真実を告げないのか」と歯がゆい気持ちになったものです。
しかしそれはしてはいけない。いくら「超人」として設定されていても、彼に何もかも解決させるわけではない、解決できない現実を、自分が生きるときに、どう踏み出すか、踏み出さないのか、踏み出せないのか、それを子どもたちに問いかけとして残す。
私自身が、ウルトラマンや特捜チームの「正義」に揺らぎを感じたきっかけは、『ウルトラマン』の「まぼろしの雪山」でした。 怪獣ウーを呼ぶということで、「ゆきんこ」と呼ばれるいたいけな女の子をいじめる男の子たちが憎らしく描かれていますが、彼らはジェットビートルを見上げ、ウーをやっつけに来たんだと言うシーンを見た時です。たぶん幼稚園児の時の視聴だったと思います。
劇中のこの時点で、ゆきんことウーの関係や、ウーがスキー観光地であるこの場所になぜ出てきたのかなどの事情はまだわかりません。
しかし、いつもなら事件を調査に来る科学特捜隊の視点でドラマが描かれるところを、逆になっているので、私は普段親しみを持てるお兄さんである思ってきた隊員たちが、急によそよそしく、怖い存在に思えてきました。そして彼らはなぜこの女の子を守る側に立たないのかと、理不尽な思いに駆られました。
やがて、ウーが開発に追われて出現したのではないかということがわかり、クライマックスの対決シーンでも、ウルトラマンは必殺のスペシウム光線を放つことを躊躇したままウーを消えるに任せ、また科学特捜隊のイデ隊員は、ウーがみなしごであるゆきんこの死んだ母親の化身だったのではないかと同情的な仮説を語ります。
しかし、誰一人、ゆきんこに直接手を差し伸べて助けようという存在は出てきません。ウルトラマンの前でウーが消えた時、村人に追われたゆきんこは1人倒れて、こときれているかもしれないと思わせるシーンとなります。 私はこの話を見て、なんとも解消できない「もやもや」を感じました。 その時の「もやもや」は、この村で起きていることに、科学特捜隊もウルトラマンも干渉することはなく、結果出てきた怪獣だけを相手にするだけなのだという、冷たい現実を認識したからではないかと、後に思うようになりました。
私や神谷さん含めた多くの子どもたちは、その「もやもや」を感じた気持ちを忘れずに成長したといえるのかもしれません。
■無限に続く「出会い直し」
ウルトラマンシリーズの物語は、子どもの時最初に観て、画面の中の「出来事」としてのインパクトが強かったのはもちろん、思春期ぐらいの年代に見直して、画面の中の「出来事」が、ドラマとして一歩深いところまで描かれていることに気づいたり、さらに時が経って、人の親になっておかしくない年代になって「あ、これは子どもたちへの言い残しておきたいことに向き合っているんだな」と初めて気づくことがあったりします。
私のしたためた本で言えば『怪獣使いと少年――ウルトラマンの作家たち』と『怪獣少年の〈復讐〉――70年代怪獣ブームの光と影』はどちらも少年期の最初のインパクトを大事にしながら、前者では思春期、後者では親の世代になって出会い直せたことに比重がかけられています。
しかし、大人になってからのものの見方によって、すべてが更新されてしまうのではないところも、子どもの時から出会っていた作品の持つ醍醐味ではないかと思っています。
子ども時代は「神話時代」と言われます。いろんなものがまだ未分化で、自我が形成されていない。その時期に出会ったウルトラマンシリーズをはじめとする作品にアクセスするということは「あの頃の自分」と出会い直すことにもつながります。
もちろん、特に平成になってからの作品には、大人になってから出会っています。だから、「人生の神話時代」にそれらの作品に出合った若い人の声を聴きたいという興味が湧きます。ある種パターン化された表現や角度に、こっちは見方としてはややスレてしまっていることでも、その時にそれと出会った気持ちに接することで「ああ、そうなのか」と気づくことは多いです。
結局、長くなってしまいました。「特撮・ヒーローはいかに語られてきたか」お互いに見て、読んできた文献に当たるというところまで到達しませんでした。 次回、神谷さんにその一歩を踏み出していただければ幸いです。
神谷さんの著書を読んで書こうとしてまだ書けていない話題もあるのですが、それはおいおい、タイミングを見て触れることにします。
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