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第6回 あらすじこそが「批評」である |
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神谷和宏さま
70年代から80年代における私自身のことについて話を振っていただいたので、今回はそこを振り返ってみます。いわゆる怪獣体験、ウルトラマン体験そのものというより、その体験を「書くこと」に多少シフトしていきながら。
ガメラに手を振った少年の姿は……
子ども時代にまでさかのぼって考えていくと、私は現在「批評家」と呼ばれていますが、もともと自分が書きたいと思っていたのは「あらすじ」だったんだという気がします。 それは、自分なりの「あらすじ」を書いてみたいという欲求です。 よく漫画の単行本とかで、前の巻までのあらすじが冒頭に付いていたりするのを読んだ時に、私は生意気にも「この要約じゃ、私が読んだ時に感じたキーとなるポイントが押さえられていない」「無味乾燥すぎてエモーショナルなものがない」とおおいに不満を感じ「自分だったらこうする」と、色々妄想していたものでした。 今考えてみれば、あらすじとは客観的、俯瞰的に出来事を中心にまとめるもので、ドラマの中のたとえば心情が動くポイントなどは、実際に触れた時に味わえばいいものなんだとわかります。そういうことも含めて、成長するとともに、だんだん「あらすじ」としてのラインを崩さずに、どう、くどくなく、自分が感じたラインを忍ばせるように出来るかということを、シミュレーションするようになったりしたものでした。 怪獣映画の例で言えばガメラシリーズ第2作『大怪獣決闘 ガメラ対バルゴン』(1966年)の冒頭では、前作『大怪獣ガメラ』(1965年)のあらすじがナレーションされて、いくつかの場面が織り成されます。 このあらすじは、前作で南極より蘇ったガメラが初めて現代人の前に現れ、東京を破壊するが、人類最後のZプランによって地球の外に追放された……つまり「地球の危機は一旦去ったが、ガメラは死んでいないよ」ということを伝えるのが目的です。 だから、かつてガメラに命を救われた、俊夫という一人の少年が、飼っていたカメとの友情をそこに重ね合わせて思いを寄せていた……という1作目のドラマ部分に触れる必要はないし、それは前作を直接観る人が味わえばいい。 それでも私は、去っていくガメラに手を振る俊夫少年のワンカットがもし入っていれば、ナレーションではそこに触れなくても「ああ、そういえば、そういうことがあったなあ」と、1作目を観ていた人も振り返れるのではないかと思ったのでした。 『ガメラ対バルゴン』は昭和のガメラシリーズで唯一子どもが出てこない、大人同士の欲望が生み出すどろどろとしたドラマがメインの作品です。その意味でも、俊夫少年が手を振るシーンは今回の文脈には合わなかったのかもしれません。 でもだからこそ、言外のワンカットとしてそれを入れ、一転ハードな展開の今回のドラマに突入する……というのもアリだったのではないかなどと、学校の授業中に妄想したりしていました。
「誌上ロードショー」の醍醐味
中学生の私がお小遣いの範囲で買える500円前後の映画本に、現代教養文庫に入っていた『日本映画名作全史』『世界映画名作全史』の戦前、戦後、現代編がありました。 一本一本の作品について章があり、各1枚のスチル写真とともに、あらすじ含めた文章が展開されるのですが、著者の猪俣勝人さんが脚本家でもあるために、そのストーリー紹介は無味乾燥なものではなく、猪俣さんのドラマ作家としての独自の脚色すら、それとなく添えてあるものでした。 私が、まず最初に『日本映画名作全史』の「戦後篇」を初めて買って、読んでいた時、ちょうどタイミングよく、東京12チャンネルで、映画評論家の白井佳夫さん解説による『日本映画名作劇場』が始まり、『ビルマの竪琴』『きけ わだつみの声』『ひめゆりの塔』といった、『日本映画名作全史』で紹介されていた戦後の名作映画が毎週土曜日の夜深く、次々とテレビ放映されて、私は実際の映画(テレビ用に短縮されたものではありましたが)と、猪俣さんが構成し直した文章上の映画を、図らずも比較することが出来たのでした。 一番憶えているのは、『ビルマの竪琴』です。猪俣さんの文では、戦没者の霊を弔うためにビルマに僧として残った水島上等兵が、軍隊の仲間に託したインコが、日本に向けて船上の人となった仲間の前で、こう鳴くのです。 「アア、ワタシハカエルワケニハイカナイ」 この一言で、かつての仲間の呼びかけにも一切答えなかった水島が、一人になった時、内心の葛藤を、何度も何度も口にしていたことが想像できます。傍らに居たインコが覚えてしまうほどに。 ところが実際の映画を観ると、水島は長文の手紙を仲間に託しており、それが船上で読み上げられます。そこではほとんどすべての心情が朗々と語られます。 私は正直、実際の映画に少しがっかりしました。くどく感じられたのです。 オウムの一言に集約させた猪俣さんの要約の方が、数倍感興を呼ぶと思いました。 ここで私は、あらすじが本編を凌駕してしまうこともあるのだと学びました。もちろん、猪俣さんとて、原典の映画に触れた感動があるからこそ、その思いを表現し直したのだと思います。 まだビデオなどの録画で、観客が一度観た映画の細部を自在に再確認することが出来ない時代です。記憶の中にある映画と実際の映画の間にあるものが、重ね合わされていたこともあるのでしょう。
「あらすじ願望」の具現化
しかし、猪俣さんの名作全史シリーズで取り扱う映画は、既に歴史に残っている、いわゆる文芸ものや社会派作品がメインで、たとえば『仁義なき戦い』『男はつらいよ』といったB級プログラム・ピクチュアから発した映画は、シリーズの中から1〜2本チョイスされることが少々ある程度でした。たとえば怪獣映画は、元祖の『キングコング』の章はあっても、日本製のものはゴジラシリーズさえ一本も載っていません。 ましてや、テレビの枠で放映されたものなどは、一部の例外を除いて掲載されませんでした。 私は、誰もやらないならば、いつかそういう作品で、こういった本を書いてみたいという願望を抱き始めました。 そうこうしている間に、朝日ソノラマの「ファンタスティックコレクション」のシリーズで、池田憲章さんたちが『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』のフィルムストーリーブックを作りました。 こちらは1話1話を最低1頁は使って紹介し、ただのあらすじではなく、ところどころセリフやナレーションを抜き書きして、誌上でドラマを味わえるように構成してありました。 ビデオが普及していなかった時代の、本編の代替物にもなり得るぐらいのものにしたいという情熱に満ち溢れている本でしたが、疑似科学的設定など、劇中ではそこまで触れていないものも執筆者のSF的解釈が加えられていました。 これには私も嬉しく思うと共に、各作品の魅力を改めてたどり直せました。 しかしそのシリーズで「帰ってきたウルトラマン」以降の作品を扱ったものが出ることはありませんでした。私も読者の一人として、心待ちにしていたのにもかかわらず。 のちに池田さんにうかがったら、だんだん権利上、丸ごとドラマを誌面で再現することが難しくなったとおっしゃられていました。カットの使用料の問題もあると思います。 私が批評というかたちで書き始めたきっかけについては、この往復書簡でもまた後々、別のところからの文脈も書きたく思いますけれども……ひとつには、こういった、自分の「あらすじ願望」の具現化というものがあったのは間違いありません。 いまでも、その作品のドラマや魅力的なシークエンスを自分なりに紹介した後、フト我に返り「いかんいかん、これは『批評』なのだから、論評部分を前後に付け加えなければ」と、あわてて、それがなぜ重要と思ったのかという文脈を明文化します。 しかし正直、「言わずもがなのことを言っているな」と思うこともあります。 上映時間もしくは放映時間の中で、どこがポイントとなっていると考えるのか、そのストーリーの妙、ナレーションの用い方、印象的なカットを配置するということは、実はそれすなわち批評行為なのではないかという思いが、一方であるのです。 神谷さんは、たとえばウルトラマンについて書く時、そのような思いになることはありますか? それともドラマ内容とは、時代層や時代貫通的な視点を抽出するためのソースと考えられますでしょうか?
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