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第7回 物語消費としてのあらすじと、あらすじのクリエイティビティ |
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切通理作さま
前回の切通さんの「あらすじ」、特にそこに内在する批評性についてのお話をうかがい、まずはあらすじ、つまり物語の再録が今以上に大きな意義を成していたことに思いを馳せました。 以前触れた『全怪獣怪人大百科』は、多くのヒーロー、怪獣、怪人というキャラクターを収録するものでしたが、並行的に、二見書房から3冊組で出ていた『ウルトラマン・ブック』や、実業之日本社の『ウルトラマンvs怪獣軍団』など、写真を交えてストーリーを紹介する本も出ていました。さらには年齢層の高いファン向けの雑誌である特撮専門誌『宇宙船』でも、1970年代までの特撮の中から名エピソードがチョイスされ、名場面の写真と主要なセリフを紹介していました。これは前回、触れられていた朝日ソノラマの『ファンタスティックコレクション』のラインナップである『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』のフィルムストーリーブックの性質を引き継ぐものでした。 内閣府の「主要耐久消費財等の普及率(全世帯)」によれば、家庭用のビデオデッキの普及率は1980年にはわずか2.4%、1983年でも11.8%に過ぎません。つまり、ビデオによる録画という手段をもたなかった時代、コンテンツを再生する手段としては主に誌上によるものしかありませんでした。児童向け書籍や雑誌での物語の再録は、同時代の視聴者の「もう一度ストーリーを味わいたい」というエモーショナルな思い、「あれはどういうストーリーだったかということをリマインドしたい」という思いを満たす働きがあったと思います。 このようなニーズを敏感にキャッチしたのは、ポピーから出ていた玩具「くるくるてれび」でした。覗き込めばそこには、放映中の『ウルトラマン80』や『仮面ライダー(スカイライダー)』に加え、旧作の『ウルトラマン』の名場面が見られる。これらはキャラクター紹介や総集編ではなく、「第〇話」のダイジェストとなっており、そこではストーリーを味わいたいという思いがフックになっていることが感じられます。 東浩紀さんはコンテンツをめぐる今日の状況について、物語を重要視する視聴、つまり物語消費から、キャラクターを構成する要素を二次創作的に組み合わせていくデータベース消費に推移していることを指摘していますが、物語の再録はまさに、物語消費の時代ならではの出来事というに相応しいのではないでしょうか。 1979年に雑誌『GORO』で『ウルトラ』特集がされました。これは一般の大人に向けた雑誌で『ウルトラ』が扱われた嚆矢となるケースであると思いますが、そこでは特撮を扱う同人誌が紹介され、同人誌を出す意義の一つとして「一つの文化遺産として、データを保存したい。」ということが書かれています。初期『宇宙船』は特撮を扱う有力な同人誌の書き手によって書かれていましたが、この同人誌以来の精神が生きていることが、創刊以来、頻繁に見られる誌上再録、あるいは放映リストの掲載ということから感じ取られます。 さて、そのような中でも、あらすじが単にドラマをダイジェストしたものではなく、批評性が内在するものであることをご指摘くださいました。先述の二見書房の『ウルトラマン・ブック』の『ウルトラマンレオ』「運命の再会! ダンとアンヌ」では、ウルトラセブン=モロボシ・ダンが、かつての同僚、アンヌと思しき女性と出会うという話で、映像作品ではその女性がアンヌかどうかわからないという終わり方でしたが、二見書房版ではその女性をアンヌと解釈してストーリーを終えています。 恣意的な解釈と言ってしまえばそれまでですが、このようなことは、脚本を設計図にしつつも、映像監督の問題意識が投影される映像作品、あるいは映像作品をもとにしつつも、大幅な翻案の見られるコミカライズ等にも見られ、元となる物語に対する批評性によって、作品に内在しつつも映像作品では発露されなかった核心的な部分が見えるようになるということが大いにあり得ると思っています。 桑田次郎によるマンガ版『ウルトラセブン』「第四惑星の悪夢」では、冷血的に星を統治するロボットに対抗し、「第四惑星をあたたかい心でつつまれた世界にする」ことを望んでいる赤い血同盟という、反体制的な人間が描かれますが、映像作品にはないこの人たちを描くことで、映像作品で描かれた、弱者であると認識しつつも、危険を顧みず同胞を救おうとする人間たちの心情に思いを馳せることができます。そしてこのような創作は、原作に対する批判性の現れの一つであり、前回切通さんが触れられた『ビルマの竪琴』のあらすじも、映像監督による映像表現、マンガ家によるマンガ表現同様のクリエイティビティが発揮された例であると感じました。 最後にご質問頂いた「ドラマ内容とは、時代層や時代貫通的な視点を抽出するためのソースと考えられますでしょうか?」という点についてですが、当初はそう思っていなかったものの、質問の文のように考えていた時期もあったことは事実です。『ウルトラ』が社会を、時代をどう表象しているのかという一点に相当、焦点を当てていた時期もあります。その理由や紆余曲折はまたどこかで書きますが、今はそう思っておらず、映像表現も含めたドラマ内容とは、詩のようなものであると思っています。何が書いてあるか、つまりあらすじそのものは言を尽くして表現できても、なぜそこで改行しているのか、なぜある言葉が繰り返されているのか…そういったことは個々人が解釈はできても、それは主観的な一意見に過ぎないし、そもそも他の言葉による還元は不可能かもしれない。絵画は絵画、音楽は音楽であり、言葉によってそれらが置き換えられるものではないように。最近はそう思いつつ、つまり批評の限界というものがあることを感じつつ、ドラマ内容に向き合っているように思います。
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