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第3回 怪獣図鑑・怪獣百科、ウルトラ授業のこと(下) |
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『ウルトラマン』を道徳化することへの違和感
切通さんが拙著『ウルトラマンと「正義」の話をしよう』を詳細に読みこんで下さっていることを本当にうれしく思います。具体的には私の選んだエピソードが、いわゆる“定番”ばかりではないこと、そして何より私が道徳の押し付けをするために授業でウルトラを扱っているわけでも、本を書いているわけでもないことを察して下さっている点についてです。 就職氷河期世代だったので教員採用試験の倍率は非常に高く、自身の不勉強もあり教師として正規採用されたのは26歳の時でした。それ以前に、非正規で教壇に立つなどしていたのですが、ある高校に勤めているときにはじめてウルトラを授業で扱いました。現代文の領域ででした。 近代小説とは、近代社会の在りよう、そしてそこに生きる人間の機微を描くものであり、それを読み解くという営為は往時の状況を知るのみならず、近代社会と地続きの世界に生きる私たちを突き動かす情動の源泉や、現代社会の積層に目を向けることである――などと、近代文学を学ぶ意義はいかようにも理由付けできると思うのですが、同様の思いでウルトラから戦後という空間を読み解かせてみたい、そういう思いから『帰ってきたウルトラマン』「毒ガス怪獣出現」を扱いました。脚本をコピーして配り、内容を精読して最後に映像作品を見る。実はここまで時間を割いたのは後にも先にも、このとき限りです。まだまだ指導技術が未熟な時期でしたが、旧日本軍に所属していた亡父が戦中に作らざるを得なかった毒ガスを、息子である自分が始末しようとする岸田隊員の生き様から、戦後空間の中で振り返られる戦争というものについて読解する中身であったと思います。 正規採用後には年に2〜3回、ウルトラの作品を視聴し、ワークシートを書いてもらい、次時に5分くらいで秀逸な答えを紹介し、私の見解を述べるというシンプルなことをやっていました。 『ウルトラマンタロウ』「血を吸う花は少女の精」を見せても「子を捨てることは悪い」といった道徳的な方向に意見を収斂させるのではなく、「子を捨てるとか虐待するというのは昔(本作は1973年の作品)からあることなのに、得てして今日的なことだと思われがち」ということや、「中学生くらいだと、子の側に立って考える人と、親の側になって考える人がいるものだ」という感じです。 このような授業がTBS『筑紫哲也NEWS23』の特集「ヒーローと日本」で取材されることになりました。ウルトラの40周年の節目であることも含意されたこの特集では、シリーズで示された正義の在りようについて、ウルトラファンのサラリーマン、ウルトラを題材にする絵本作家、ウルトラを授業に生かす教師(私)、黒部進さんから高峰圭二さんまでの4人の主人公を演じた役者、そして脚本家の市川森一さんによって語られました。このときは授業に2時間を割き、『帰ってきたウルトラマン』「怪獣使いと少年」と、『ウルトラセブン』『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンティガ』の最終話をごく短く見せました。暴徒と化した大衆からメイツ星人を守れず、メイツ星人を慕っていた良少年が絶望に暮れるのを見ているほかなかった無力なウルトラマンの姿や、人々に自立を促すかのように去っていくウルトラマンたちの姿は、ヒーローの不在を描くものであることを作品から読み取ってほしいという思いでした。ディレクターの細川さんという方は良い意味で、子どもたちに期待をかけていない方でした。つまり、先生が喜びそうな(=いかにもテレビ受けしそうな)解答はなくていい。あまり心に響かなかった、そんな反応があっていい。この言葉にホッとしたのを覚えています。実際に行ってみると、生徒はカメラが回る特殊な状況の中で緊張気味でありながらも闊達な意見を言い、国語の授業としては悪くはなかったと思います。しかしweb上には「良い道徳の授業だった」とか「ウルトラを道徳に使うな」といった賛否が書かれるようになりました。全国放送の影響力は強く、地元紙や地元のテレビ局からも取材の依頼がきました。生徒からは「怪獣使いと少年」や「故郷は地球」への意見として、「差別や偏見、排除は良くない」といった解答が出されます。すると、扱いとしては「ウルトラを通していじめ問題を解決する」などとなるわけです。もちろん、生徒(というか視聴者)が個々に作品を受け止める中で、そこに道徳的なものを見出すのは自由だと思います。でも、これを教育の場で扱う側が、君たちにウルトラから道徳的なものを見出してほしいんだ、と方向づけるのはやはり違うと思います。本居宣長は『源氏物語』を儒教や仏教の観念で読み解くことに懐疑的でしたが、作品を道徳的なまなざしで見るとそれは作品を矮小化することにもなりかねないし、それをよりによって、正義というものの不確かさや暴力性を描くことのあるウルトラで成すとすれば、それは「論語読みの論語知らず」のような行為であるように思うのです。切通さんはこの点について前回、私がウルトラを通して正義を教えたいのではなく、〈一つの正義が別の視点からは違う風に見える例として差し出し、「それでも君の視点は変わらないのか?」「君も同じ立場になったら、どうふるまうことが出来るのか?」という生徒自身の意思を問うているのだということがわかりました〉(連載第2回を参照)とまとめて下さいました。もうそれはその通りで、例えば谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』は明治以降の西洋化の中で駆逐されていく旧来的な日本らしさというものがあることを伝えるものであり、時代が変化し続ける限り、あの随筆は読む者に思索の時間を与える力を持ち続けるように思います。そしてそれは伝統を重んじようなどという安直な道徳を提示するものではない。むしろ目に見えない近代化という状況が作品内に示されている点に近代文学としての特色があるわけで、同様の思索を私たちに与えるものとしてウルトラを扱っていたわけです。しかし、太宰治の『走れメロス』を道徳的な教材として捉えるケースがどうしても出てくるように、学校という空間で何らかの作品を扱う以上、道徳的な解釈から自由になることは難しいということを痛感しました。 報道する側も、授業はあくまで国語であり、道徳ではないということは承知しつつ、先述のようにいじめ問題などと絡めて取り上げると、それだけ見る側への訴求力が上がり、より神谷さんを大きく取り上げることができるので、といって「いじめの抑止、ウルトラで」と謳われることもありました。それは厚意であったことに相違なく、そういう方々のお陰で、今の私があるともいえるのですが、これで良いのかと決定的に思ったのは『ウルトラセブン』「第四惑星の悪夢」を扱ったときでした。ロボットが人間を支配する筋書きに対して、「便利なものに頼りすぎると良くない」という中学生としては悪くない解答がテレビで紹介されました。しかし、ここまで単純化した答えが報道されてしまうのを見て、私は自分の行っていることに疑念と限界を感じました。作品が表象するものは、数値や論理が力を持つ社会では人間までもがそれらに隷属させられる。だがそれこそが近代社会の実相であり、文明化した近代社会には、犠牲になっている事物が埋もれた暗部があるということではないのか。第四惑星を統治するロボット長官とは、私たちの生き方を規定する合理主義、またそこから織り成される社会システムのような存在であるということ、あるいは本作を撮った実相寺昭雄監督はゴダールの『アルファヴィル』に着想を得たことを話しているが、それらの点を考究しなくて良いのだろうかと思い始めました。しかしそんな難解なことは中学校の授業では扱えません。他にもいろいろな困難が重なり、中学校ではウルトラを扱った授業をやめてしまいました。 この話はまだまだ深められるし、何よりこの後、大学のゲストティーチャーとして自分が本当にやりたかったウルトラの授業を行ったことなど書きたいことは山積みなのですが、今回は長くなってしまいました。その辺はまた次回以降にしたいと思います。 今回は、図鑑や大百科というスタイルで扱われていた特撮が、いつしか道徳的なものとして取り上げられるに至ったという意味で特撮の語られ方の変遷を論じることになりました。とはいえ、この間にはまだまだいろいろなことがあったわけであり、その辺は切通さんとのやりとりの中でまた触れていければと思います。
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