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第4回 社会性とは社会正義の押しつけではない、ということ(上) |
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神谷和宏さま
社会性とは社会正義の押しつけではない、ということ
神谷さんがおっしゃった、学校の授業でウルトラマンを扱うことが、作品から何を受け取るのか生徒さんに自分から考えてもらう試みとしてではなく、道徳を教え込むものなのだと思い込んだ批判にさらされることが多かったというお話、私もハッとさせられました。 怪獣や侵略宇宙人を悪として戦うウルトラマンを通して、ストレートに道徳としての正義を語るのも、あるいは逆に、怪獣宇宙人を倒すことが酷いことだと教え込むのも、どちらも、片方の正義の押しつけに他なりません。 ここでいったん話はわき道にそれますが、神谷さんの前回の文を読んだ時、僕はちょうど『映画芸術』という雑誌を読んでいました。 そこで映画監督・脚本家の井上淳一さんが、テレビドラマでオレオレ詐欺の被害を「こんな酷いことがあった」とだけ描くのではなく、どうしてそのようなことに加担する若者が出てくるのかという、現代社会に対する視点を盛り込まないのは違和感があると書いていました(『映画芸術』476号『仮面の狂騒 警視庁機動捜査隊216』書評)。それを、神谷さんの文章から考えたものと照らし合わせてみたのです。 ウルトラシリーズを振り返れば、たとえば『ウルトラマン』の第20話「恐怖のルート87」は、車を襲う怪獣が悪いのか、交通事故を起こす人間が悪いのか……という話です。 国道を走るトラックを襲う巨大な怪鳥ヒドラと科特隊との戦いが描かれますが、科学特捜隊のフジ・アキコ隊員の前に一人の少年が現われて、ヒドラの出現を予言していました。その少年ムトウ・アキラくんは交通事故の犠牲者で、ヒドラには少年の霊が乗り移ったのではないかという推測が生まれます。 ですからこの回は、怪獣が必ずしも悪役ではないことを一方で示している回と言えます。 しかしその一方、この回では、ヒドラに襲われたトラックの運転手が画面に映ります。普段、怪獣によって人に死がもたらされることを、直接的に描くことは少ない『ウルトラマン』なのに、あえてこのようなシーンが入ることで、視聴者の私たちの心を揺さぶっているのではないかと思いました。人間による過失で殺された少年の魂が乗り移っているかもしれないからといって、この怪獣の行為を許しておいていいのだろうか……という気持ちにさせるかのように。 やがて、ウルトラマンが天空高く飛ぶヒドラの背中にアキラ少年の霊を見て、スペシウム光線を打つことなく見逃した後、少年を轢き逃げした運転手が自首してきたことが、ハヤタ隊員によって視聴者に知らされます。つまりヒドラが襲ったトラックの運転手は、少年の事故とは無関係でした。 物語を作るうえで、もし、轢き逃げ犯の運転手をヒドラが直接襲ったということにしてしまえば、少なくとも視聴者の気持ちの上では、ヒドラは100%同情できる怪獣となるはずですが、この回の脚本を担当し、『ウルトラマン』全体のメインライターであった金城哲夫*さんは、そうはしていません。 それは、ヒドラと少年の個人的なつながりを、社会的な広がりの中に置きたいという意識からではないでしょうか。ムラマツキャップは物語の最後に、ヒドラのことを「不幸な死を遂げた少年の化身なのかもしれない」と言います。それはアキラ少年ただ一人のことではないでしょう。交通化社会の到来で、国道が整備されていく中で犠牲になった者たちの存在全般に視点が促されているのではないかと思えます。 もちろん、その開発は人類のためによかれと思ってなされていること。我々人類は、早いスピードで行き来できる社会の進歩によってもたらされる便利さを享受しています。
神谷さんは先のお手紙で、近代小説を読み解くようにウルトラマンを授業で扱いたかったとおっしゃられ、その概念として、以下のように書かれています。 〈近代小説とは、近代社会の在りよう、そしてそこに生きる人間の機微を描くものであり、それを読み解くという営為は往時の状況を知るのみならず、近代社会と地続きの世界に生きる私たちを突き動かす情動の源泉や、現代社会の積層に目を向けることである〉 劇というものに、人間の感情はもちろん不可欠ですが、フィクションだからといって、社会との関わりをそこに都合よく従属させることは出来ないという意識が、ウルトラシリーズの作り手にはあったのだと思います。 そんな、社会の中での物語の位置付けというものがなされているのがウルトラシリーズの特徴だと思うのです。 ひるがえって近年の社会のことを考えると、ネットでのやりとりなどを見ても、「白か黒か」の二択になってしまっていて、それを同時に捉えることができなくなっている気がします。 捨て子塚から怪獣が現れる『ウルトラマンタロウ』の第11話「血を吸う花は少女の精」を神谷さんが授業で取り上げる時「「子を捨てることは悪い」といった道徳的な方向に意見を収斂させるのではなく、「子を捨てるとか虐待するというのは昔(本作は1973年の作品)からあることなのに、得てして今日的なことだと思われがち」ということや、「中学生くらいだと、子の側に立って考える人と、親の側になって考える人がいるものだ」という観点にまで意識を広げていくことが出来れば……」というのは大事なことであり、同時に、いまにおいても容易に出来ることにはなっていないと感じます。 ただ不正に対する怒りの感情だけを掻き立て、それに対して味方なのか敵なのかを迫り、声を上げなければ味方したことになるとばかりに集団の威を借りるのは、『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いの少年」で、「正義」に駆られて少年と老人を追い詰める民衆と本質的には同じです。 かえすがえすも、ウルトラシリーズで提示されてきた問題は終わってないなと感じます。 暴徒にまぎれる、つまり匿名下では蛮をふるえても、個々が透いて見えて立場が弱くなると急に力にすがろうとする。そんな人々に対する「勝手なことを言うな」とモノローグする郷秀樹=ウルトラマン。作者の上原正三**さんは会心のセリフだと思ったそうですが、それは、私たちすべてに向けられている言葉として受け取るべきだと私は考えます。
*金城哲夫(きんじょう てつお、1938-1976年) 脚本家。沖縄県島尻郡南風原町出身。上京して玉川学園高等部に入学。1962年、TBSドラマ『絆』で脚本家デビュー。1963年、円谷特技プロダクションに参画。『ウルトラQ』『ウルトラマン』『ウルトラセブン』のメイン脚本家を務め、高い完成度を誇った。1969年、円谷プロを退職後、沖縄に帰京。芝居の脚本・演出などで活躍した。 **上原正三(うえはら しょうぞう、1937-2020年) 脚本家。沖縄県那覇市出身。中央大学卒業後、金城と知己を得て『ウルトラQ』第21話「宇宙司令M774」でデビュー。『帰ってきたウルトラマン』ではメイン脚本家を務める。『ウルトラマンA』にも参加。『ウルトラマンタロウ』の初期でシリーズを離れる。『がんばれ!!ロボコン』『秘密戦隊ゴレンジャー』の脚本を担当。シナリオ集に『上原正三シナリオ選集』(現代書館、2009年)、著書に『金城哲夫 ウルトラマン島唄』(筑摩書房、1999年)、『キジムナーKids』(現代書館、2017年)など。
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