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第4回 社会性とは社会正義の押しつけではない、ということ(下) |
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時空を超えた「本物」との出会い、あるいは出会い直し
さて神谷さんの提示いただいた話題の中で、見過ごせないのが、キャラクターの真正性についてです。 神谷さんのおっしゃった『ムーミン』の60年代末から70年代初頭にかけて2度にわたってシリーズが放映された日本でのアニメ版は、当時リアルタイムの視聴者だった私にとっても懐かしく、大人になって見返したくなる作品のひとつでした。 特に、最初のシリーズの最終回で、ムーミン谷のみんなが「冬眠」して終わった後、第2シリーズの初回ではそこから目覚めるところから始まるのはいまでも鮮烈です。架空の世界が、僕らの現実と並行して続いており、また会うことができるということを実感したのですから。 なので、この作品がいま観れない状態にあるのはとても残念です。原作者に気に入られなかったということは知られていましたが、それでも生前は封印まではされていなかったのです。 後年、より原作者の意向に沿ったといわれるテレビアニメシリーズも作られましたが、そのときはもう私は大人でした。たとえ原作者の眼鏡にかなっていようと、「僕らのムーミン」は別なのだと思いました。 ですので今のこの封印状態には、自分の少年時代の一部が奪われたままのような気持ちになっています。 「僕らのムーミン」。それはまさに、自分にとって、神谷さんのおっしゃった「俺たちのウルトラマンだ!」という言葉と呼応します。 『ウルトラマン80』以来、27年ぶりに恩師・矢的猛先生と再会した桜ヶ丘中学の元生徒たちが、彼の変身するウルトラマン80を屋上から見上げて放った言葉でしたね(『ウルトラマンメビウス』第41話「思い出の先生」)。 「ウルトラマンといえば初代だ」「セブンだ」という世代に比べて、ウルトラマン80が同時代だったという人は少ないかもしれない。でも、それぞれの世代に「俺たちのウルトラマン」が居り「俺たちのヒーロー」はいる。 矢的先生を演じた長谷川初範さんが登場し、物語の中でかつての生徒と再会するという状況も胸熱でしたが、「俺たちのウルトラマンだ!」という言葉は、そのようなドラマ設定すらも超えて、心に響いたのです。 いま公開中(本稿執筆時点)の『ウエスト・サイド・ストーリー』で、1961年版『ウエスト・サイド物語』のときにヒロインのアニタを演じていた90歳の現役女優リタ・モレノが、かつて自分が演じた同じ役のアリアナ・デボースと対峙するシーンが話題になっていますね。 新作が、過去のオリジンへの単なるオマージュだけでなく、時空を超えてかつての「現在」を肯定してくれる。最近は、そんな目配せのある作品が増えている気がします。 たとえば『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』。ここでは2002年のサム・ライミ監督版以降の実写映画における全スパイダーマンが、そのマスクを脱いだピーター・パーカーの姿でも共演しました。 かつて第2作で中断した格好になった『アメイジング・スパイダーマン』で、アンドリュー・ガーフィールド演じるピーターは、ヒロインのグウェンが目の前で墜落死するのを止められなかったという自分の過去を、今回『ノー・ウェイ・ホーム』の再登場で象徴的に救います。それは、あれで中断してしまったという見る側のモヤモヤも救い出してくれるものでした。 再登場編が、オリジンを観たときの心の隙間を埋めてくれる。そんな瞬間に、ウルトラファンは何度か遭遇しています。 先ほど話題にした、『ウルトラマン80』の途中で打ち切られた先生編の『メビウス』での補完もそうですし、同番組で、『ウルトラマンA(エース)』での、やはり途中でなくなった「男女合体変身」の担い手・北斗星司と南夕子が再会したのもそうですね。 それは物語上の補完であるとともに、かって演じた同じ役者が出ているということが大きいと思います。人はそこに「キャラクターの真正性」を見るのではないでしょうか。 いまやCGの発達で、たいていの画面的処理ができる中で、あえて昔の役を演じていた役者が、現実の年齢の変化を重ねた姿で登場するとき、架空のキャラクターが、現実の自分と同じ年を重ねてきたという感慨が呼び覚まされます。 トビー・マグワイアも、アンドリュー・ガーフィールドも、以前より少し禿げ上がっていたり、疲れを感じさせる容姿になっているのに、またグッとくるものがありました。 こうした展開がいま世界基準になっていることの萌芽が、わがウルトラマンシリーズにもみられるのもうれしいですね。 しかし、そうした感慨はあっても、「ヒーローに変身する」という設定の俳優と、「変身後のヒーローを演じる」俳優は別なことが多いというのも、大人になってしまった我々はもう知ってしまっています。 なので私は、変身前の役を演じていた俳優さんの現在を知ったときも感慨がありますが、ある意味それ以上に、スーツアクターをしていた人を目の当たりにしたとき、より震えがくるものを感じます。 平成ウルトラマン初期三部作の本である『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ、2000年)の新版(徳間書店、2019年)を作ったとき、新規取材で、スーツアクター座談会を行わせていただきました。約束の場所で、横断歩道の向こうに信号待ちで立っている、かつてウルトラマンティガを演じた権藤俊輔さんのすっくとした姿勢を見たとき「本物だ!」と思いました。 あるいは、初代ウルトラマンを演じた古谷敏さんとお会いしたとき、古谷さんはその日力道山を悼む集まりに行ってきたとおっしゃり、「スペシウム光線の元祖、空手チョップ」と手真似してくださった瞬間、やはり「本物だ!」と電撃に貫かれたような感激を覚えました。
架空の物語という要素が強いSFヒーローものだからこそ、そこに「真実」を観たとき、己と夢の世界が重なったような気になる。そんな「本能」が自分にもあるのだなと再確認させられます。 さて、そんな基本認識を確認した後は、では私たちは、いつ、特撮SFヒーロー番組の、裏方としての「作り手」の方にも興味を持つようになったのか、そのプロセスを振り返る段階に進みたく思います。 もちろん、話題は行きつ戻りつ、あるいは思わぬ方向に転がっても面白いと思います。 引き続き、よろしくお願いいたします。
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