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第1回 プロローグ:東京の真ん中にロシアがあった |
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黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」
1982年早春、午後6時の代々木駅。西口には予備校が林立し、専門学校や政治政党などもあって、人どおりが激しく賑やかだ。 それに比べると、東口はひっそりとしている。小さな改札を抜ければ、すぐに急な下り階段がはじまる。足元に気をつけながら降りてゆくと、やがて平らになるが、しばらく歩けば今度は上り階段。これを上がりきると、目の前を走る狭い道の向こうに雑居ビルが立ち並ぶ。
正面に位置するのが目指すビルだ。入口に扉はなく、いきなり狭くて古い階段である。薄暗くて、入るのにちょっと躊躇うが、看板が出ているのだから間違いない。勇気を出してまっすぐ14段を上ると、すこし広くなっていて、そこでまた1段。その先はさらに狭い階段が続く。どんなに細い人でも、2人並ぶのは無理だろう。8段上って、そこで方向を換え、さらに7段。東口改札から数えて、いくつの階段を上り下りしたことか。
だが、たったこれだけの距離を進めば、その先はロシアだった。 ИНСТИТУТ РУССКОГО ЯЗЫКА ≪МИР≫ ミール・ロシア語研究所。 わたしの母校である。
その頃のわたしは、勉強にも部活動にも興味のない高校生だった。授業が終わればさっさと下校し、途中で図書館に寄って気に入った本を借り出しては、それを家で読む日々。それでとくに不満もなかった。 勉強に興味はなくても、外国語は大好きだった。高校以前、中学生か、ひょっとすると小学生の頃から、何も分かっていないクセに魅かれていた。ただしこの場合の外国語とは、英語以外を指す。英語は成績とか競争といった実利と密接に関係し、将来のためといって推奨される優等生科目。成績は並み以下、運動神経が完全に欠如したドン臭い高校生にとって、英語は遠い存在だった。
英語以外の外国語だったら、なんでもよかった。ひとりで自由に楽しめるのなら、何語だってよかったのである。両親は揃って外国語ができない。おかげで何を選んでも、口出しされる心配はない。 ところが不幸にして、母方の親戚にはいろいろな外国語に触れている人びとがいた。祖父は旧制大学でドイツ語が得意だったらしい。英語が得意な叔母はフランス語にも磨きをかけている。南米出張の多い叔父はスペイン語が得意だというし、もう1人エンジニアの叔父は仕事が台湾と関係しているため中国語の心得があると聞く。
被りたくない。切実にそう願った。 親戚というものは、金は出さないが口は出すものである。高校から解き放たれ、外国語を自由に楽しみたいときに、大きな障害になる。さもないと「△△語だったら××おじさんに聞くといいよ」などという、余計なアドバイスが出そうではないか。
高校生だったわたしには、外国語といえばNHKのラジオやテレビで開講されている以上の発想がなかった。当時は英語以外に5つの言語が学べたが、そのうちドイツ語、フランス語、スペイン語、中国語が、すでに親戚によって侵されている。 残りはロシア語しかなかった。
だがこれはむしろ幸運だった。NHKのテレビ講座を観比べた結果、もっとも惹かれたのがロシア語だったからである。 最大の魅力は文字だ。NやRの裏返し。見たこともないЖやШ。こんなのが読み書きできたらどんなに素敵だろうか。たったそれだけの、単純な気持ちなのだが、そのうち暇さえあればビデオに録画したテレビ講座を眺め、さらにラジオ講座も聴くようになった。
しばらくすると、学校に通ってきちんと勉強したくなった。親は何もいわずに許してくれた。そこで高校1年生の秋から1年半、新宿にあるカルチャーセンターでロシア語を学ぶ。初級・中級・上級と半年コースを順調に進み、最後にはチェーホフの『桜の園』を原書で講読するまでになった。高校2年生のわたしは誇らしさでいっぱいだったが、さりとてそれを語れる友人がいるわけでなく、ただひとりで辞書を引いたり、ロシア文学の邦訳を読み漁ったりしていた。
その頃、ロシア語にも検定試験があることを聞きつけ、受けてみようと思い立った。今では検定試験なんてまったく興味がないのだが、なんのスキルもない高校生には、そんなものでも励みになる。これまで学んだことの総復習のつもりで、受検することにした。受かったら、友だちにもロシア語のことを話そうかな。
だが結果は不合格だった。通知によれば文法や和訳はまずまずだったが、聞き取りと露訳が悪かったことが敗因だという。つまり自分からアウトプットする能力がないわけだ。辞書を片手にチェーホフでは、それも当然だろう。 そこで高校3年生からは、もっと本格的なロシア語学校に通って、満遍なく語学力を伸ばしたいと考えた。 ちょうどその頃、ある関係から言語学とチェコ語で有名な大学の先生と会う機会に恵まれた。わたしは早速、ロシア語を伸ばすにはどのような学校で学べばよいか尋ねてみた。
「だったらミール・ロシア語研究所」 先生は即答だった。
「ロシア語学校は他にもいろいろある。だが大手の学校では、先生が入れ代わり立ち代わり教壇に立つ。都合が悪いとすぐに代役を立てる。そういう学校の生徒に、誰にロシア語を習ったのか尋ねても、みんな答えられない。だがミールは違う。全員が東(あずま)先生に教わったと答えられる。学校はそうでなくちゃダメなんだ」
わたしはミール・ロシア語研究所について調べてみることにした。幸い、NHKテキストに広告が掲載されていたので、これを頼りに電話をかける。出たのは女性だった。事務の人だろうか。すこし話をしたところ、まずは授業を見学するようにいわれ、曜日と時間が指定された。もちろん行くしかない。話がどんどん進んでいく。
こうして、それまで縁もゆかりもなかった代々木駅に、17歳のわたしは生まれてはじめて降り立った。ただ向かう改札口が、多くの同世代とは違っていたのである。
わたしはここに、ミール・ロシア語研究所の物語を書き留めようと思う。 高校3年生から約十年、多くの時間を費やしてここに学び、のちには教えることになった大切な母校。留学する機会に恵まれず、そもそも大学のロシア語学科に進学することさえ当初は叶わなかったわたしが、それでもロシア語を身につけ、通訳や教育の仕事に就くことができたのは、すべてミールのおかげである。 ミールには独自の教育法があった。それはごく単純なものなのだが、その代わり確実に身につく。留学や検定試験では決して得られない成果が、必ず得られるのである。ただしそのためには、教師と生徒が辛抱強く学習を継続することが前提となる。このことも記録しておきたい。
ロシア語のことしか考えていなかった青春の日々。いま振り返れば、あまりの恥ずかしさに居たたまれ,ないほどなのだが、混乱する現在の外国語教育をもう一度考え直すため、恥を忍んでここに記すのである。
------------------------------------------------------ ※ミール・ロシア語研究所は一九五八年六月に創立され、2013年に閉校しました。55年もの長きにわたって、多くの生徒が学び、ロシア語の専門家として巣立って行きました。わたしがここで書く物語は、長い歴史のなかのほんの一部、しかもごく個人的な話です。この学校の全体像については、『ミール・ロシア語研究所 55年の軌跡 生徒の文集』(ミール文集編集委員会編、非売品)に詳しく、本連載でもそのデータなどを使わせていただきました。 この学校は東一夫(あずまかずお)先生、東多喜子(あずまたきこ)先生ご夫妻が中心となって教えておられました。この先はお2人のことをそれぞれ一夫先生、多喜子先生と呼ぶことにします。
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