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第23回 6−4 拝啓、グエン・バン・リン書記長殿(その4) |
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黒田龍之助 Web連載 「ぼくたちのロシア語学校」
厳しい試験のあと、たった一回だけだが、一夫先生を囲んで近くの「グリシェン」というお店に、飲みに行ったことがあった。 このときのことはよく覚えている。クラスメートは貝澤くんや、かつていっしょに通訳の仕事をした池田さん、大原さん、玉城さん、さらに多喜子先生も自分の授業が終わってから、遅れて登場した。池田さんたちは一夫先生とすでに何回も、いっしょに飲みに行ったことがあるらしいが、わたしや貝澤くんははじめてである。とにかく楽しい晩だった。
一夫先生は肉が大好きだった。肉をたくさん食べることが、幸福であると信じていた。授業中にも、ソ連は安い値段でよい肉が手に入る、日本とは大違いだと強調しておられた。 「《でもね、ソ連の肉屋では骨も合わせて重さを測りますからね、なるべく骨の少なそうなところを選ぶようにするのが、コツなんですよ》」
と、先生は可笑しそうに笑っておらした。
グリシェンでも、一夫先生は肉をたくさん注文した。多喜子先生に「ほら、ザクースカが足りませんよ。コロコロステーキを注文しましょう」と促す。 закускаザクースカとは「つまみ」のこと。ただし一夫先生のイメージでは、和風のちまちましたつまみではなく、ソ連風のしっかりとしたステーキがザクースカだったのかもしれない。
牛肉を角切りにしたコロコロステーキは、一夫先生のお気に入りらしかった。お酒は健康上の理由から控えていらっしゃるようだったが、それでもそのときはレモン酎ハイを盛んに飲んでいらした。 「こんなのは水みたいなものです」
わたしたちは笑った。多喜子先生は、「プリパダバーチェリは若い人と話すのが大好きなのよね」とおっしゃった。 「преподавательプリパダバーチェリ」とは男性教師のことで、女性なら「преподавательницаプリパダバーチェリニツァ」、どちらも『標準ロシア語入門』の第一課で習う基本単語である。夫婦間で、「プリパダバーチェリ」「プリパダバーチェリニツァ」と呼び合うのが、なんだか面白かった。 * * *
思い返してみれば、このときまで一夫先生と日本語で話したことはほとんどなかった。多喜子先生もそうだったが、とくに一夫先生の場合は、たとえ授業が始まる前後でも、教室では常にロシア語である。だが呑み屋ではさすがに日本語で、わたしはすこしだけリラックスした。
「貝澤さんを見ていますと、以前ミールに通っていた優秀な生徒を思い出しますね」
かつて入門科ですこし習った、角田安正先生のことらしい。
「黒田さんはね、うちの息子に似ていますよ。やさしい子です」
そういえば、先生ご夫妻には息子さんがいらしたのだった。 「実は昔、息子にもロシア語を仕込んだことがあったのですがね。どうも親子というのは難しいものです。ついつい厳しく接してしまって、イヤになってしまいましたね、残念ながら」
そういうものかもしれない。わたし自身、父親には反発する息子だった。だから先生の息子さんの気持ちもよくわかる。 ミールでは、ちょっとダメな「ニセ息子」でいることにしよう。それがわたしに与えられた役割なのだ。 そう考えながら、わたしはコロコロステーキを、もりもり食べた。
* * *
一夫先生はわたしや貝澤くんが大学院生、つまり研究者の卵であることを常に意識しておられた。二人が目立って若かったこともあり、一夫先生からはさまざまな忠告をいただいた。 非常に記憶に残っているのは、次のことばである。
「《黒田さんも貝澤さんも、研究者を目指しているんですよね。だったら、長生きしなければいけません。詩人だったら、プーシキンやレールモントフみたいに、よい詩を書いてさっさと死んでしまうことだってあるでしょう。しかし研究というものは、成果が上がるまで時間がかかります。だから長生きしなければならないのです》」
わたしはこのことばを、今でも大切にしている。 そんな一夫先生ご自身は、二〇〇五年九月に、八十五歳で亡くなられた。
あれから長い時間が経過した。結局わたしは、何年ミールでロシア語を習っていたのだろうか。正確には思い出せない。というのも、わたしは一夫先生の授業を受けながら、次第にミールで教えるようになっていたのである。 この話は、第二部で語ることにしよう。
習いながら教える。教えながら通訳する。通訳しながら大学院に通う。 二十代のわたしが忙しかったことだけは、鮮明に記憶している。
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【予告】ご好評いただいております、黒田龍之助先生のWeb連載「ぼくたちのロシア語学校」は今回(第23回:2月27日更新)をもちまして第1部(生徒時代)終了です。3月6日に第2部(講師時代)の冒頭をおまけで掲載し、本連載は終了となります。
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