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WEBマガジン 26/06/02神谷和宏


第10回 特撮史―80年代的なものに抗った『宇宙刑事ギャバン』

80年代にウルトラマンがいたら――山際永三監督のこと
 生まれてはじめて自分のお金で買ったレコード。それがキングレコードの『帰ってきたウルトラマン』のサントラでした。開田裕治さんによるシックで大人っぽいジャケットは、『宇宙船』を愛読する少し大きな特撮ファンになっていた僕にはとても魅力的でした。「まだウルトラマン好きなの?」と言われ続けていたがゆえに、あの静的な画風は「ほら、ウルトラマンはこんなに大人っぽいんだ」と言える材料だと思ったのかも知れません。怪獣不在で、何かと戦うでもない新マン(=当時の帰ってきたウルトラマン=ウルトラマンジャックの俗称)は夜の都会で何を考えているのか――そんな思いを抱いたように記憶しています。
前回の切通さんの指摘を承けて、なるほどあれは高度な進化を遂げた都市の中で窮屈そうにしているウルトラマンの姿なのだと思うと、ますます『帰ってきたウルトラマン』世界が表れているように思いました。70年代でさえ、ウルトラマンや防衛隊は怪獣と戦う前に、組織の論理、ものを言う大衆といったものに向き合わなくてはなりませんでした。
まして80年代であればウルトラマンはその巨大な体を相当窮屈そうにしなくてはならなかったように思います。MAT(『帰ってきたウルトラマン』に出てくる防衛隊)は本当に解散させられていたかも知れません。
山際永三監督はこの時代に自分たちは仕事を失っていったという旨を話しています。山際さんが監督を務めた『チャコねえちゃん』に端を発する『ケンちゃん』シリーズは1982年に終了。1979年から続く『あばれはっちゃく』シリーズも1985年に終了しています。そんな時代の背景として山際さんは、大人向けのドラマに夢中になっている子どもたちの存在を示しています。
私はまさにその時代の小学生でしたが、この書簡の第1回に書いたような1980年代中盤以降の「明るさ」「楽しさ」「軽さ」至上主義、現代的に言えば「陽キャ賛美」みたいなメディアの空気感が、僕には耐えられませんでした。声が大きい、力が強い、巧みに人をいじりたおす……そんな人が空気を作る学校に疲弊して帰ってきても、テレビをつければ自分にとって快適な世界が待っている――そんな時代が終わりつつあるように感じていました。
『ケンちゃん』シリーズなど、ある作品で急にコミカルな主題歌になり、すぐにシリーズ終焉。子ども向けのテレビの世界に扇情や笑い、過激さが押し寄せる中、良心的、牧歌的な空間は急激に狭まっていくのを感じました。夕方のアニメや特撮の再放送作品こそが楽しみだったものの、徐々にそれも終わる――。


80年代的なものに抗ったヒーローたち
そんな1980年代の僕にとっての窮地を救ってくれるヒーローたちはバード星からやってきました。80年代の軽さや過激さは、年を追うごとに濃厚になっていきましたが、82年に開始された『宇宙刑事』シリーズは、そんな空気感におもねることなく、そしてその洗練されたメタリックな姿とは裏腹に、泥臭く人間臭いヒーローでいてくれました。それは『巨獣特捜ジャスピオン』以降の作品にも継承されますが、その礎はやはり、『宇宙刑事』シリーズの第1作『宇宙刑事ギャバン』で築かれたものと思います。これは特撮史のエポックであったと思います。
友達の家の『テレビランド』か『テレビマガジン』で放映前にあのメタルボディーのギャバンを見たときに、なんてかっこいいのか、斬新なのかと感嘆しました。
1982年、私は小学3年生でしたが小学校中学年にもなると周囲はどんどん特撮から「卒業」していきます。毎月楽しみにしていた小学館の学年誌でも特撮が大きく扱われていたのは『小学二年生』までだったと記憶しています。


『宇宙刑事ギャバン』と上原正三さん
『宇宙刑事ギャバン』はどこまでも僕の味方でいてくれました。一話完結型でありながら主人公一条寺烈の父探しという縦軸が存在し、あるいはマクーという敵組織内も決して一枚岩ではなく、様々な思惑が交錯していることは、少し目の肥えてきていた僕に見ごたえのある展開でした。
敵組織内の軋轢――それは上官からは解散をちらつかされ、大衆からも時に批判されるMATを想起させるものでした。後年、上原正三さんにお会いしたときにその話をすると、「僕は敵であっても味方であっても「組織」というものをよく描くんです」と話されていました。この点に限らず、「再放送で見ていた1960〜70年代の(『ウルトラ』シリーズを含む)特撮との地続き感」を『宇宙刑事』シリーズから肌感覚で感じ取っていたように思います。
切通さんの『怪獣使いと少年』を読み、金城哲夫さんが没し、佐々木守、市川森一両氏が80年代以降、特撮の前線に立たなくなる中、上原さんだけは現役の特撮の作家さんであり続けたことに気付きました。そしてそのことで、ますますその存在感が際立つのを感じました。『ウルトラセブン』を振り返るイベントで、「『シャリバン』を見て下さい」と上原さんがおっしゃったということを切通さんが前回書かれていますが、怪獣ブーム期の担い手としての上原さんが、80年代特撮もまた手掛けていたことを改めて認識させるエピソードだと思います。
80年代以前/以後の特撮の連続性と分断―この点は特撮史において重要だと思い、後に博士論文で考察しました。


『宇宙刑事ギャバン』と大葉健二さん
『宇宙刑事ギャバン』で忘れられないのはやはり、一条寺烈=大葉健二さんの熱演です。華麗なアクションに加え、強さと優しさを体現され、圧倒的な存在感を放っていたと思います。メタリックで電子機器がきらめくギャバンですが、そこに大葉さんの変身前の演技があったからこそ、決してクールではなく血の通ったヒーローになったのだと思います。母を失い、父を探す苦境の中でも明るく、子どもたちの味方でい続けたギャバンこそは最強のヒーローでした。『海賊戦隊ゴーカイジャーVS宇宙刑事ギャバン THE MOVIE』(2012年)で一条寺烈が劇中の人物に言う「大きくなったなあ」のセリフは僕たち、かつての子どもたちに向けた言葉であったと思います。大葉さんは最近物故されましたが、本当に惜しまれます。AIが人の行動に干渉し、社会変革の一翼を担う今こそ、人間味にあふれた一条寺烈の活躍が見たかったと思います。


特撮史そのエポックを語る意義――さらなるエバーグリーン化を見据えて
切通さんが提案された特撮史のエポックを挙げるということについて、非常におもしろく、かつ必要なことだと思っています。その観点で今回私は『宇宙刑事ギャバン』を取り上げました。
私は2017年の長女誕生に際して育児休業を取り、その間、北海道大学大学院の院生の身分を生かし色々な授業に出たのですが、文学研究の重鎮のような先生が文学研究の究極の到達点は自ら文学史を成すことだといいました。その一方で、それはほとんど無理なことだとも。たしかに万葉以来の文学史を一人で成すのは至難の業でしょう。ですが私は、特撮においてならそれは可能ではないか、やるべきだと思いました。そう考え、テレビ作品に絞った特撮史ともなるべく博士論文を書いたのです。ですから、切通さんとのやり取りを通して、お互いの特撮史観を交わらせるのは非常に有意義なことだと思っています。
特撮やアニメの有力作品はエバーグリーン(長寿)コンテンツとなり、もはや世代と国を超えて受け継がれています。今年60周年を迎えた『ウルトラマン』シリーズもまちがいなくエバーグリーンコンテンツの一つです。
昨年の万博のバンダイナムコのパビリオンでは、『ガンダム』の世界観を生かして宇宙ゴミの問題を世界に向けて啓発していました。放映開始から40年以上たつ『ガンダム』が現役であり続け、商業的な役割を担うともに、公共性を担う存在となる状況や、ポップカルチャー大国としての日本を体現するかのように、パビリオンの外にはリアルサイズのガンダムの巨像が存在していました(ポップカルチャーが公共性を引き受ける是非はひとまず置いておきます)。
そんなことを思うと、特撮史における大文字のできごとを振り返っていくことは、少し大げさかもしれませんが日本文化のある一角を振り返り、今後を展望する営みに繋がっていくのではないかと思っています。

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