現代書館

WEBマガジン 21/08/25神谷和宏


第1回 『帰ってきたウルトラマン』そして評論『怪獣使いと少年』との出会い

 切通理作さま

この度、切通さんと往復書簡的なやり取りをさせて頂けることは僕にとってかなり特別な出来事です。なぜ特別なのか――。
この往復書簡の初回は僕が「切通理作」を知るまでの経緯を書かせていただきます。これは読者の方々には、僕と『ウルトラマン』シリーズとの出会い、そしてこのシリーズとどう接してきたかということをお伝えし、さらにはこの往復書簡がどのようなものになりそうかということを知っていただけるものにもなると思っています。

■サンタを信じられない幼稚園児

 僕はサンタクロースを信じることのできない幼児でした。知らない人にものをもらったらダメ、そんなどこの家庭でも言われるようなしつけの言葉を、実直に信じていたのでしょう。知らない人が子どもたちにプレゼントをくれるはずがなく、もしそういう人がいるなら、それは親が裏でお金を渡しているからだろうと。
――タバコの吸い殻が散らばった繁華街の路地裏で、タバコをくわえた小太りの老人が、大人たちから太々しく現金を受け取る。そしてクリスマスの夜にサンタに扮してプレゼントを届ける算段をつけている――サンタに対してそんなイメージをもっていました。だから特撮やアニメに対してもどこか距離を置いており、幼稚園の友達がウルトラマンの話題を口にしていても、「怪獣の中には人が入っているんだよ」と言って、周囲をしらけさせてしまう。僕はそんな子どもでした。

■帰ってきたウルトラマンとの出会い

 年長になり、幼稚園のお遊戯会で「帰ってきたウルトラマン音頭」を踊ることになりました。1979年のことだから番組終了から7年も経っており、その間いくらでも子どもたちの見そうな番組だってあっただろうに、『帰ってきたウルトラマン』の主題歌に振りをつけて踊ることになったのは、それが当時、再放送されていたからかも知れないし、たまたま幼稚園にレコードがあったからかも知れません。
 これがきっかけで『帰ってきたウルトラマン』を見ることになり、そこから他の『ウルトラマン』シリーズ、あるいは当時は数多く再放送されていた、特撮やアニメ全般に夢中になりました。
 多くの子がそうだったと思いますが、ウルトラマンが倒されてしまう展開、あるいは前作までのヒーローが助けにくる展開にワクワクしていました。ゼットンに敗れるウルトラマン、ガッツ星人に磔にされるセブン、ヒッポリト星人にブロンズ像にされるウルトラ兄弟……。
 同時に、何か引っかかるストーリーも気になっていました。
『帰ってきたウルトラマン』「星空より愛をこめて」のラストシーン。破壊工作を企て、怪獣を伴って地球に来ていたケンタウルス星人(女性)が一人の男性と心を通わせ改心、自らが連れてきた怪獣を倒すために命を落とす。それに対し人間たちが黙祷をささげる。あるいは『ウルトラマン』「故郷は地球」で、怪獣ジャミラがもとは罪なき人間だと知りながらも、その苦悶の声に動じることなく葬り去ったウルトラマン。
これらのシーンを見て、幼心にも情緒や不条理を感じ、それは大人たちが健全なものとして提供してくる絵本などに通じる、物語の奥底にまだ何かある感じとよく似たものであることを嗅ぎ取っていたように思います。もちろん幼かったので、頭の中で整理したり、言葉にできるようなものではありませんでしたが。
さらには『帰ってきたウルトラマン』でよく描かれる、上官からの圧力、市民からの無理解に悩むMAT(怪獣攻撃隊)の姿、あるいは『電子戦隊デンジマン』や『太陽戦隊サンバルカン』で描かれる、敵組織内の人間関係の軋轢の描写なども相まって、僕たちも大人になればこういうことを経験するのかも知れないという思いを抱いていたように思います。 

■1980年代のメディアミクスや二次創作

小学館の学習雑誌『幼稚園』や『小学一年生』は僕らにとっての貴重な情報源でした。毎月、藤子不二雄、手塚治虫、赤塚不二夫らの新作マンガが掲載されているという、今考えると夢のような誌面の中で、リアルタイムで放映されていた『ザ☆ウルトラマン』や『ウルトラマン80(エイティ)』の特集に加え、ウルトラ兄弟や歴代のウルトラ怪獣にちなんだ特集が組まれていました。そこでは、バードンやタイラントなどの歴代の強敵がエントリーされ、怪獣同士の戦いの末、最終勝者は誰になるのかといった二次創作的な展開が見られました。決勝はバルタン星人とゼットンで、ゼットンの放つ火球をバルタン星人がスペルゲン反射鏡で跳ね返して勝利するというものでした(なぜ、ゼットンはそこでバリヤーを張らなかったのかなどと思いました)。
あるいはウルトラ兄弟の光線技や格闘技を比較するといった企画。これらの誌面を通してまだ見ぬ怪獣、エピソード、技等々があることを知り、いつか再放送で見られる日が来るのを心待ちにしていました。当時はわからないことをすぐに調べる術もなかったので、「エースロボットは地球人が作った正義のロボット」とか「ゾフィーは『ウルトラQ』に何度か出ていたようだ」といった情報がまことしやかに友達の間に流れていました。
 ケイブンシャから出ていた大百科シリーズ、中でも『全怪獣怪人大百科』は主要なテレビ特撮作品に出てくる怪獣、怪人を余すところなく紹介しているバイブルであり、今見ている再放送作品の情報を得、さらにはまだ見ぬ作品を知っては、再放送されるのを待ち遠しくしていました。
小学校では友達とキカイダーごっこをよくやっていました。キカイダーに変身するジロー役の子は敵役の子と戦っていますが、誰かがギルの笛の音をハミングすると、ジロー役の子は耳をふさいで苦悶の表情を浮かべます。『人造人間キカイダー』もまた再放送されており、敵のボスであるギルの怪しい笛の音が響くと、ジローの不完全な良心回路(悪事を働かないようにする装置)に作用し、ジローが苦しむということを多くの子が知っていたのです。
このように特撮を見るという行為は友達との共通体験でした。 
小学校も中学年になると、周囲はだんだんと特撮から"卒業"していきました。もっとも、1980年代初頭のこの時期は『ウルトラマン』シリーズも『仮面ライダー』シリーズも一旦、テレビシリーズとしては終了していたというのも、周囲の特撮離れの理由ではあったでしょう。
再放送も徐々に減り、僕にとって心地いい特撮の世界は何だか遠ざかっていってしまいました。

■1980年代のテレビ番組の変容

 小学3年生以降中学生くらいまで、つまり1980年年代中盤辺りから、大好きだったテレビに急激な変化の波が押し寄せるのを感じ、僕は戸惑い始めます。
僕にとって特撮やアニメのヒーローとは、時に相手に信じてもらえなかったり、バカにされたりしても愚直なまでに信念を突き通し、それが(多くの場合)最後には認められる。そんな清廉潔白でまっすぐなイメージで凝り固まっていました。だから三枚目ヒーローである『キン肉マン』や、過激な暴力シーンに満ちた『北斗の拳』は受け入れることができませんでした。
 特撮のみではありません。欽ちゃんのバラエティに馴染んでいた僕にとって、下ネタや暴力、あるいは強いものは目立ち、弱いものはネタとしてであっても虐げられ、そしてノリがすべてを支配するかのようになったお笑いの世界の変貌にも戸惑いました。中学校に入ると『毎度お騒がせします』の話題なんかが、交わされていましたが、性的なトピックスを露骨に扱うというこれらのドラマも、それは親や教師の目を意識してとかそういうことではなく、もうこれは自分の見るものではない、という感じで突き放して捉えていました。
 特撮、何よりウルトラへの情熱は冷めやらず、小学生にして朝日ソノラマから出ていた特撮専門誌『宇宙船』を読み、その別冊的存在である『ウルトラマン白書』に至っては擦り切れるほど読み返しました。当時、大人を対象とした特撮の関連書籍などほとんどありませんでしたよね。また金城哲夫や上原正三のシナリオ集も愛読書でした。

■平成、そして1990年代

 中3の冬休みに昭和が終わり時代は平成へ。
その年の春から高校生だったわけですが、僕の通っていた高校は当時、進学校ではなかったということもあり、勉強や進路、文化系の話題はあまり交わされず、バイクや車、セックス、時給の良いバイト、あるいはタバコや酒、パチンコ等々の話がよく周囲からは聞こえてきました。盗んだ車で事故を起こした同級生もいました。今考えれば、尾崎豊が歌うような世界を目の当たりにしていたわけです。当時はそんな客観視をできるはずもなく、怖い人に目を付けられないように、ひっそりと生きていました。この高校、今ではすっかり良い学校になっていることを申し添えておきます。
 特撮の話などを共有できる友達などいませんでしたが、このころから漠然とものを書く仕事に就きたい、できればウルトラについて書きたいと思うようになりました。
 本が好き、文章を書くのも好き、物書きでは簡単に生計を立てられないだろうが、マスコミに入るか、国語教師になるのもありかも、そんな動機で大学では国文学科へ入りました。
ウルトラへの関心は冷めやらず、友達と同人誌を作り、そこでウルトラ論を書こう、なんて思っていた時に目にしたのが『怪獣使いと少年―ウルトラマンの作家たち』でした。 

『怪獣使いと少年』

 その書名が『帰ってきたウルトラマン』のサブタイトルから取られていることはもちろんすぐわかります。
 遡りますが、高校生の頃、『ウルトラマン研究序説』という本が話題になったことにがっかりしていました。それは同書がウルトラの作品世界を取り上げつつも、政治や経済の本であり、ウルトラ自体について論じたものではなかったということ以上に、世間が同書を絶賛したということに対してでした。つまり、ウルトラについて論じられていないのに『ウルトラマン研究序説』と銘打った同書を受け入れている世間に対して憤っていたのです。(ちなみに今は、『ウルトラマン研究序説』を巡るブームは、同書へのアンチテーゼとして、怪獣映画の本質について多面的に考察した『怪獣学・入門!』を生み出す一つのフックとなったであろうことや、『サザエさん』に関するトリビアを考察した『磯野家の謎』等とともに、ポップカルチャーを論評の俎上へ上げたという点で文化史的に興味深い現象であると考えています。)
 さらに80年代にはすでに、大人が特撮を論じる場面は多少なりともあったものの、そこで言及されるのは『ゴジラ』しかも第1作への賛美ばかり。ウルトラを論じるにしても、『ウルトラQ』〜『ウルトラセブン』の初期3作品を持ち上げ、ことさら「セブンは大人の視聴に堪える」といった紋切り型の論ばかりで、自分が何より愛着のあった『帰ってきたウルトラマン』以降の作品は切って捨てられていることに憤りがありました。
 ですから、『怪獣使いと少年』を見たとき、その題名からして、「これは初期3作品のみを持ち上げる本ではない!」と直感し、しかもページを繰れば、真正面からウルトラを論じるものであることを知り、その場で買いました。
 この本の登場は衝撃的でした。なにせそれまでウルトラの評論といえば、大人のファンを対象にしたムック本で、内容的には読みごたえがありつつもわずかな分量の作品批評が載っているのがせいぜいであったわけです。
まるまる一冊、ウルトラに絞った評論というだけでも驚きであったのに、そこにはウルトラに詳しいと勝手に自認していた自分が知らない数多くの事実、そしてこういう観点からの考察がありなのかと思わされるトピックスが並んでいました。まさに僕が渇望していた本であり、世間の多くのウルトラのファンも渇望していた本であったように思います。4人の作家(金城哲夫、佐々木守、上原正三、市川森一)たちの成育歴、戦争の記憶、テレビ界への進出の足取り等を取材し、しかもそれが自分のよく知るウルトラのエピソードの作品性の問題と絡んでいく。これは、自分が思っていたことを誰かが代弁してくれたというレベルをはるかに超えており、むしろいかに自分が狭い視野、表面的な観察力でウルトラを論じようとしていたのかを思い知らされることになりました。物故していた金城を除く、3人の脚本家からの貴重な証言をもとにしつつも、作者の思いという強力な磁場から少し距離を取って語られる独自の論考。これらが「ウルトラマンってこんなに深いんだよ! すごいでしょ!」といった感情の押し付け、あるいはテーマ性が内在しているからこそウルトラはすごいという単純な論調から離れ、しかも抑揚のきいた筆致で書かれている。筆致については、この少し後に切通さんが出された『お前がセカイを殺したいなら』の帯文に「ボリュームが小さいのに主張が伝わるのが切通さんのトーン」といった評がありましたが、同感であり、そのような筆致だからこそ、読む側も粛々とそこに書かれていることを受け止められるという面があったように思います。まだ、大人になっても特撮やアニメが好きな人は変わっている人というステレオタイプが世に根強かった時代に、とても自然体に、つまりウルトラを語ることにことさら遠慮気味、自嘲気味でもなければ、声高でもない筆致であったように思います。
読み終えるのが惜しいという思いで読み終えましたが、ウルトラの世界を大人目線で捉え直すという長年の渇望が癒されるとともに、こんな本が出てしまったら、僕は何をすればいいのかという思いを抱いていました。この時点では、『怪獣使いと少年』がウルトラ評論の完成形であるかのように感じられていたのです。他の面からのアプローチがあるということ、僕が前々から書きたいと思っていることを切通さんが語りきっているわけではないということに気付き、これ以後も新たなウルトラ評論が成立する可能性があるということに気付くのは、この本をもう一度冷静に読み返してからのことでした。また後に自身の関心事となる「風景映画」「ヌーヴェルヴァーグ」……といった事柄についてはろくに理解を深めようともせず、完全に読み飛ばしてしまっていたのも事実でした。
自身の未熟さに気付かされ、また今後のウルトラ評論の可能性を見出してくれた『怪獣使いと少年』。
それを書かれた切通さんとやり取りをさせて頂くことは僕にとっては特別なことなのです。

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