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第8回 特撮作品の「評価軸」変遷史と、「顔」となる人物(上) |
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神谷さん、まずは、前回お手紙頂いてから、年月が経ってしまった事を、お詫びします。 今回、再開を許して頂き、あらためて往復書簡を最初から読み返して、神谷さんが、いつも具体的なアイテムや媒体の固有名詞を出して展開することを、ひょっとしたら心がけてらっしゃるのかな、と思い当たりました。対話とは、相手の記憶の扉を開くことなのだと。 たとえば「くるくるテレビ」という名前。内部には8ミリフィルムが巻き付けられており、片目で覗くとミニ映画が観れるというこの玩具が出た時、私は既に小さい子どもではなかったのですが、当時のSFビジュアル雑誌「宇宙船」の紹介記事で、バラして中のフィルムを取り出せば、8ミリ映写機にかけられる……と書いてあったのを、真に受けてしまったのです。 それ以前、8ミリで怪獣映画のソフトが販売されていた時代があり、長編映画のダイジェスト版でしたが、子どもの自分からしたら高価で、とても手が出ないと感じていました。しかし「くるくるテレビ」は玩具の範囲の価格帯でありながら、フィルムを付け替えるだけで、自宅で怪獣映画シアターが出来てしまう! 私は興奮を禁じ得ませんでした。 そこで、買ってきたばかりの「くるくるテレビ」のゴジラ編(内容は『ゴジラ対メカゴジラ』の戦闘場面でした)で1〜2回、片目で覗き込む正規の楽しみ方をした後は、惜しげもなく中のフィルムを取り出して、自宅の8ミリ映写機のリールに取り付けようとしました。 ところが、パーテーションの穴が逆に付いていたため、それは無理だということがわかったのです。 神谷さんが書かれていたように、庶民の子がビデオ録画という手段を持たなかった時代の「映像への執着」のあらわれとして、いまではそれさえも懐かしく感じられますが、これも、神谷さんが固有名詞から書き起こしてくださったおかげで、記憶の扉が開いたのです。
●怪獣という「スター」に触れたい 前回の原稿で、神谷さんは、1979年に雑誌「GORO」での『ウルトラ』特集(1977年9月8日号「現代<風俗>研究 ウルトラマン」)を、一般の大人に向けた雑誌で『ウルトラ』が扱われた嚆矢となるケースとして触れておられましたが、そのほぼ最初の段階で、同人誌の役割が紹介されていたということを指摘されています。 これは当該記事を執筆した上野明雄さんが同じ小学館の学年誌を担当しており、そこでウルトラの記事を書く際、過去作の事実確認で、番組の「マニア」たちを強力な援軍にしたという背景があります。 「たとえば怪獣の情報で『ゼットンに初代ウルトラマンがやられた後、ゾフィーが来た時のセリフはなんだったか』とかね、そういうのがすぐに出てこないわけよ。ビデオがない時代だから、フィルムを回さないと、再現できないじゃない?」(拙著『怪獣少年の<復讐>』所収「怪獣は<有害メディア>か 学年誌の果たした役割 証言・上野明雄」より) 彼らはまだ就学年齢で、上野さんは親に許可を取って、百科事典の一式をプレゼントしたり、放映終了した番組のスチールをプレゼントする等の便宜をはかり、力を借りました。その前後並行して、彼らは活動を同人誌に落とし込んでいきました。 いまでは、話数順に各話タイトル(サブタイトル)、監督、脚本、放映日を記す「放映リスト」は各番組のWikipediaでほぼ見られますが、商業誌でこれが載ったのは、朝日ソノラマの「ファンタスティック・コレクション」が本格的には始まりだったと思います。 これも、ファン出身の編集スタッフが元々1話1話の映像からメモして、調べていた事の蓄積でした。 「ファンタスティック・コレクション」はそれを作っていた編集スタッフにとって、思春期以降の年代つまり同年代に向けて、商業用出版物を手がける最初の機会だったのです。その流れが同じ朝日ソノラマのSFビジュアル誌「宇宙船」の創刊へとつながっていきます。 それ以前の怪獣書籍は、「平凡」「明星」といった芸能人の活動を紹介するグラビア雑誌の怪獣版という意味合いが強かったのではないかと思います。 つまり怪獣がスターであり、その写真がいっぱい載っていて、身長、体重、出身地等のプロフィール情報を交えて紹介されているという価値感覚が中心だったのです。 駄菓子屋などで売られていた、1枚5円の怪獣ブロマイドも、その範囲にあるものだったと言えるでしょう。 それらで使用されていた写真は、スタジオの内外で「特写」されたものが中心で、作品のフィルムから複写した、実際の場面写真は多くはありませんでした。 「ファンタスティック・コレクション」以降の特撮書籍は、実際の場面の複写を積極的に活用していくようになります。これも、もともとマニアである出版スタッフの方が、既成の編集者よりも、いちいちフィルムを全編掛けなくても、的確に必要なカットを選定できたと思います。 私は、スチル写真ではない、実際の場面から使われたカット写真を、当時非常に新鮮なものに感じました。 ビデオが普及していなかった当時、場面写真を、実際の作品を観ている時以外に接することは、ほとんどなかったからです。 たとえば東宝映画の着色スチールでのキングギドラは、口から炎を吐いています。ジグザグ状の引力光線を吐く姿は、映画の中でしか見られませんでした。 また、雑誌の怪獣グラビアでは、絵師の活躍がみられました。劇中では個別に登場していた怪獣たちが一同に介したり、ウルトラマンやセブンが複数の怪獣を一度に相手にする様が、見開きの絵でパノラミックに展開されます。 南村喬之、石原豪人、柳柊二、梶田達二といった挿絵画家による緻密かつダイナミックな画は、怪獣たちの立役者でした。それは劇の再現ではなく、祝祭的なもう一つの世界でした。 また、名編集者と言われた大伴昌司さんが、怪獣の内部図解を考案し、子どもたちに「中身」の想像力を掻き立てたのも、ひとつのアプローチでした。 南村さんたち挿絵作家は、彼らの仕事に代わって、フィルムの複写カット全盛の時代を作った特撮ファン世代から、「宇宙船」誌で再評価の対象になっていきます。そこでは時代が一回りした印象を持ちました。
■「世界観」が凝縮されはじめた 初期の「宇宙船」で毎号表紙画を描き、現在、怪獣絵師の第一人者として知られている特撮ファン出身の開田裕治さんは、前世代の挿絵画家たちとはありようが違います。開田さんは作品の持つ世界観を取り混ぜて、怪獣画を成立させます。たとえばスクラップ置き場で夕陽に照らされるカネゴンには、ドラマの中で描かれる、元々は人間の子どもでありながら、いまは怪獣として疎外されるさびしさをまとった世界観が凝縮されています。 映像作品は、動く映像としてカット割りで表現されることが多く、その積み重ねが観る側のイメージを醸成します。番組からのカットの複製だけでは、作品そのものの世界観を凝縮するにはやや弱いと感じられることがあります。 開田さんはドラマとしての世界観込みで、しかも必ずしも場面の再現ではなく、怪獣やウルトラマンを描いたのだと思います。 キングレコードから出た「帰ってきたウルトラマン」のサントラジャケットのために描いた開田さんの絵を観た時、私は意表を突かれました。新宿の高層ビル群を思わせる、自分よりも背丈の高いビルを背景に、窮屈そうにしているウルトラマンがそこには描かれていたのです。 番組の中にそういうシーンはありません。しかし、そこに象徴されていたのが、70年代に入り、60年代の頃のようにおおらかに伸び伸びとは戦えなくなったウルトラマンの苦闘ぶりだとするのならば、それは、人類が宇宙に行き、万博が開催された後に再開されたウルトラマンである「帰ってきたウルトラマン」という番組のあり方と、通じている時代の空気というものが凝縮されているのではないか・・・と思ったのです。
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