現代書館

WEBマガジン 09/08/25


第三回 人類はメディアで滅亡する(2)

斎藤美奈子


森達也さま

 和歌山カレー事件については、普通に報道されている以上のことを私はほどんど知りせんでした。それでも「被告人が否認し続けていること」と「物的証拠がないこと」くらいは知っていたので「冤罪ちゃうか」という感触はもっていたのだけど、森くんが書いてくれたことで、いろいろ謎が解けました。

 前回の森文書をちょっとまとめますと……。



1)被告人が関与したとされる6件については、被害者とされた二人(一人は林被告人の夫である健治氏)とも自分が被害者であることを否定して、林被告人の無罪を訴えるという異常な事態になっている。


2)弁護団はこれらのことから、真犯人は砒素の猛毒性をあまり熟知しておらず、軽い悪戯や嫌がらせのレベルでカレー鍋に砒素を入れたのでは、と推理している。実際にこの近隣では、トイレや庭に殺虫剤として砒素を撒くなど、多くの家庭が砒素を自宅に持っていたらしい(実はこの地元では、「真犯人はあの人では・・」と多くの人が噂する人がいるらしい)。


3)過去に被告人に砒素で殺されかけたとして検察側が証人として採用したIさんは、カレー鍋に砒素が混入されたと警察が正式発表した8月2日から被告人が起訴される12月29日まで、ほとんど警察に囲われていた。


4)被告人がカレー鍋の周囲をうろうろしていたとの目撃者証言がとても不確か。


5)夫である健治さんが取り調べのときに検察官に「私は林眞須美に毎日のように砒素を飲まされていました。それが逮捕後わかりまして、今では眞須美がとても憎くて、憤りを感じています。くれぐれも眞須美に対しては極刑をお願いします」という文面を書いて署名捺印してくれと依頼された。



 こんだけ「冤罪の証拠」が上がってたら、無罪だよね、普通はね。「じゃあ、だれが砒素を入れたんだ?」という素朴な疑問も、(軽々な判断は禁物にせよ)同じ地域に他にも可能性があった人がいた、ということで、かなり納得できました。

 しかし、こういうことは、ほんとに報道されていませんね。雑誌や単行本レベルではあるのかもしれないけれど、少なくともこういう認識をもっている人は少ない。



>この憎悪は、麻原死刑囚や光市母子殺害事件の被告人に対し>て向けられるものと、おそらくは同質だろう。人にはそんな属性>があるとは思うけれど、でもこのどす黒くて凶暴な憎悪の解放が>、一昔前より臆面がなくなっているような気がして仕方がない。



 そうですね。「同質」だろうと思います。もし「一昔前より臆面がなくなっている」としたら、理由はなんでしょうね。私がいまの時点で思いつくのは……。



1)凶悪犯罪が減っているから。

 貴君がいつも指摘しているように、統計上、凶悪犯罪は減っている。成人の犯罪も少年犯罪も。そのぶん、ひとつひとつの犯罪にかんしては詳細な報道がなされ、結果的に「昔は治安がよかったのに、いまはとんでもない犯罪社会」みたいな錯覚をみんなが起こしている。


2)単純な正義感の横行

 むかしはさー(という言い方も危険ですが)、町中にいろんな人がいたから、人々に寛容さというか、免疫があったような気がする。「世の中、いろんなやつがいるさ」みたいな。だけど、都市が清潔になっていくにしたがって、町から闇の部分が失われ、「異質な者は排除する」という文化ができてきた(その伝でいくと、今般の経済危機で世の中がもっと貧しくなっていくと、逆にもう少し「寛容さ」が戻ってくるのかもしれないけど)。ホームレス狩りとか、学校での「いじめ」も、背景は同じかもしれない。

 もっと単純にいうと「彼ら/われわれ」「あっち/こっち」「敵/味方」「悪/正義」という二分法で、世の中を見ている人が多いのではないだろうか。で、自分は「われわれ」「こっち」「正義」の側にいるということを確認したくて、「敵」を過剰に攻撃する。「犯罪者」に対するヒステリックな憎悪(自分が被害者でもないのに)も、改憲して戦争ができる国にしたいという論法も、根はいっしょという気がします。



「警察や検察が、これほどに人に不合理な重い罰を与えることに情熱を燃やすことが、やっぱりどうしても腑に落ちない。もちろんそれが彼らの業務であり、評価に繋がるということは知っている。でもあまりにも度が過ぎる。以前に日本の冤罪事件を調べたとき、予想をはるかに上回る数の多さと手法の露骨さに、とにかくあきれたことがある」。



 そうですね。私も前は腑に落ちなかったけど、この頃は腑に落ちる(笑)。警察や検察は「なんでもやる」「信用しないほうがいい」と胆に銘じたほうがいいと思ってる。

 痴漢冤罪くらいでも、ひどいもんね、警察&検察のやり方って。

 なぜそこまでやるのか。

 「警察&検察&裁判官」をまとめて「官憲&司法」と呼ぶとすると「官憲&司法」と「マスメディア」と「個人」の共同正犯によって、冤罪はなりたつような気がします。

 たとえば、和歌山カレー事件。あの事件が起きたときの、マスコミの張りつき方は完全な犯人扱いでひどかったし、報道をみていた人たちも「ひどい女だ」と思ったわけですよね。それが冤罪だとなったら、「官憲&司法」はもちろん、官憲情報を鵜呑みにして大騒ぎした「マスメディア」も、報道を鵜呑みにして騒いだ「個人」も、みんな「自分の間違い」を認めて反省しなくちゃいけなくなる。「自分の罪」を認めなくちゃならなくなるわけ。それが嫌なんだよ。だって、みんな自分こそが正義だと信じたいんだから。その足元が揺らいだら、アイデンティティが揺らぐ。「公共の福祉」のためには、被疑者に犠牲になってもらうほうが都合がいいわけです。

 だから「官憲&司法」は何が何でも有罪に持ち込もうとするし、マスコミも冤罪らしき証拠が出て来ても「見て見ぬふり」を決め込みたい。真実を突き止めることよりも、早く決着をつけて、早く忘れたい。

 私も、その気持ちは、わかるよ。自分の非を認めるって辛いもん。

 冤罪を晴らすって、だから、ほんとーーーーに大変だと思います。「もういいじゃん、その話は。終わったことじゃん。早く忘れようぜ」と司法もマスコミも「民意」も思っているんだからね。

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