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第七回 人類はメディアで滅亡する(6) |
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森達也
【前回6回目対談の続き】
2 被告の謝罪文朗読から始まった二日目の法廷は、とてもスリリングな展開に終始した。なぜなら昨日の被害者の証言と今日の被告の主張が、あまりにも食い違いすぎるのだ。 芥川の『藪の中』を引き合いにするまでもなく、事象や現象は多面的であり、どこから見るかでまったく違う。一致するほうがおかしいのだ。
でも今日の法廷で明らかになった被害者と被告の主張の食い違いは、その域をはるかに超えていた。 たとえば被害者は、過去に被告を病院に連れて行ったこともある(つまり身辺の面倒を見ていた)と主張するが、これについて被告は、「自分で救急車を呼びました」と即答する。被告に対しての暴力行為について被害者は、「五回殴って三回反撃された」と昨日証言したが、被告は「殴られたのは6、7回で、反撃したのは一回だけ」と主張する。「食事に10回くらい連れて行った」と被害者は証言したが、被告は「そんなことはありません」と否定する。
聞きながら惑う。どちらの言い分が正しいのかと。もちろん裁判員たちも惑ったはずだ。だからこそ6人中5人の裁判員が挙手をして、被告に積極的に質問した。「自首することで刑は軽減されると思っていたか?」とか、「なぜ(被告人と被害者双方の知り合いである)社長の仲裁を待たなかったのか?」などの素朴な質問は、確かに職業裁判官には発想しづらい視点かもしれない。 被告人質問の際に検察官は、答える被告に対して、「供述調書と違う」と何度も指摘した。これもまた食い違い。
ここで留意すべきは、これまでの裁判ではこんな局面で、調書のほうが当たり前のように重要視されてきたということだ。だからこそ警察や検察は時として強引な調書を作成し、結果として多くの冤罪を引き起こしてきた。
ところが今日の法廷は、明らかに場の雰囲気が違っていた。6人の裁判員たちは、調書よりも今の被告の発言のほうに意味を見出しているように感じられた。法廷だけに参加する裁判員としては、当たり前の感覚といえるだろう。 ならば警察や検察の取り調べそのものが、これからは劇的に変わるかもしれない。裁判員制度については基本的に反対の立場だけど、これは予想しなかった波及効果だ。 論告求刑で検察は、被害者の激しい処罰感情を理由に挙げながら厳罰を求め、最終弁論の際に弁護士は、被害者の処罰感情を過大に評価することの危険性を訴えた。近代司法の大原則である罪刑法定主義の見地からは、きわめて正統な主張だが、裁判員たちはどのように判断したのだろう。明日にはその結論が明らかになる。
3 検察の求刑が6年だから、判決の4年6ヵ月は、ほぼ相場どおりの八掛けということになる。直裁に書けば、予想を裏切るほどに、額面どおりの判決だった。 初日と二日目の法廷を傍聴した感覚で言えば、被告の情状酌量を訴える弁護側の戦略は、とても功を奏していた。被害者である男性から被告が2年にわたって心身ともに追い詰められた過程も明らかになり、最後に捨て鉢になる心境も、ある程度は理解できた。 もちろん「ある程度」だ。殺意を抱いたその心情や、被害者に対して行った行為を、正当化など絶対にできない。 ならばどの程度の罰を、被告は受けるべきなのか。犯した罪と与えられる罰は、どんな均衡であるべきなのか。 被告がすべての容疑を認めているからこそ、この裁判の意味は、犯した罪に対して、いかほどの罰が妥当であるかを決めることだった。 つまり「罪と罰」。そんな古典的で本質的な命題を、この裁判は呈示した。 しかし量刑を具体的に判断する際に、市民感覚の導入は難しい。犯した罪に対して2年の懲役が妥当なのか、あるいは3年なのか、5年なのか、それとも執行猶予をつけるべきなのか、その判断の尺度や基準を、一般市民は持ちえていない。傍聴しながら改めて実感したけれど、これはプロの領域なのだ。 その意味では、定量化された裁判所の従来の量刑判断に、市民から選ばれた裁判員たちがどの程度の影響や揺さぶりを与えるかが注目された裁判だったけれど、結果だけを見れば、ほとんど影響を及ぼさなかったといえるだろう。
東京地裁で行われた初の裁判員裁判の判決も含めて、厳罰化の傾向は明らかだ。今回もそもそも6年の求刑が(個人的には)かなり重いと感じたけれど、判決は杓子定規にほぼ八掛け。 評議の際に計算の基準を持たない裁判員たちが、プロの裁判官の示すガイドラインに従ったと考えて、ほぼ間違いはないだろう。 もちろんこれは想像だ。判決後の記者会見で、評議の際には活発な議論があったと発言した裁判員もいた。その帰結としてこの判決に落ち着いたとの可能性は否定できない。 でも明確にはわからない。なぜなら評議の内容は、決して外部に公表されることはないからだ。 事実関係が争われず量刑判断だけを決める法廷は、実際の刑事司法において、決して少なくない。むしろこちらのほうが多数派だ。
ならばやはりここで、裁判員の意味と役割について、この社会は考えるべきだろう。 裁判員制度については反対の立場ではあるが、司法に対する国民の理解や関心を高めるとの理念については、異を唱えるつもりはない。理念は間違ってはいない。でもあまりに制度が未整備で拙速すぎると思うから、今は反対している。 裁判員たちの多くは記者会見で、司法についての理解も深まり貴重な体験だったと述べている。ならばその体験を、できるかぎりは普遍化するべきだ。国民が共有するべきだ。 量刑判断における裁判員の意味と役割。そして守秘義務規定についても、もう一度考えるべきであることを、今回の裁判は呈示した。始動直後の今だからこそ、軌道修正は可能なはずだ。
引用はここまで。今日の日付は8月30日未明。衆院選の帰趨はほぼ決しました。民主の圧倒的勝利。前回の総選挙の際には、優勢民営化是か非か式の二項対立で自民の圧倒的勝利。そして今回は、政権交代是か非か式の(やっぱり)二項対立選挙で民主の圧倒的勝利。どっちも共通することは民意の暴走。
二大政党制の弊害は政治がポピュリズム化すること。やっぱりこの国にはこの制度は危険すぎる。
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