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第十九回 戦争の記憶と捕鯨(上) |
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斎藤美奈子
森達也さま
どうも。返信おそくなってごめんなさい。毎日暑いですね。 世間は夏休みですが、私は片付けなければならない仕事がどっちゃりあって、うんざりです。
「この「心くらいは痛めているでしょう」との認識が、いろんな意味で問題なのだと僕は思う(決して喧嘩を売るつもりはないからね)。でも冷静に考えれば、なんか変だ。だって殺されている牛や豚は(種牛や豚は別にして)、そう遠くない未来に、やはり殺されて解体される運命なのだ。問題は当事者である彼らの悲嘆や辛さを、非当事者であるこの社会の大多数が、あたかも共有しているかのような気分になることだ」
おっと、そこを突っ込まれるとは思いませんでした。 不用意に「心くらいは痛めているでしょう」みたいなことを書いてはいけませんね。「当事者である彼らの悲嘆や辛さを、非当事者であるこの社会の大多数が、あたかも共有しているかのような気分になること」の問題点については重々承知しているつもりですが、「心くらいは痛めているでしょう」という一言は全然深く考えずに書いたことを認めます。 しかし、この一言は、もとはといえば、森君の
「確かに牛や豚は経済動物だけど、あまりに無感覚になりすぎていると思う」
というフレーズに反応して(というか同調したつもりで)書いたんだよね。 ですので「あまりに無感覚になりすぎている」とはどういう意味なのかが知りたいです。
「だって殺されている牛や豚は(種牛や豚は別にして)、そう遠くない未来に、やはり殺されて解体される運命なのだ」
なんてことははじめからわかっているわけで、この問題を突き詰めていくと、宗教論議に限りなく近づいていきます。 でも、そういうことを、あなたは言いたかったわけではないんだよね? 口蹄疫の問題に関してはひとまずおくとしても、
「少しこだわりたいところなんだ。なぜならこの善意(被害者意識)の感染が、人類にとっての大きな宿痾なのだとつくづく思っているから」
っていうところも、わかるようでわかりません(「宿痾」なんていう難解な言葉も無学な私の用語にはないし・笑)。 一般論としていえば、もちろん軽々に「当事者である彼らの悲嘆や辛さを、非当事者であるこの社会の大多数が、あたかも共有しているかのような気分になること」は慎まなくてなりません。 なにごとによらず、私もなるべく感情論は排して考えたいと思っています。 でもさ、「当事者である彼らの悲嘆や辛さ」は絶対に共有できないのだ、と決めつけてしまったら、戦争のことなんか、誰も考えられなくなるし、語れなくならない?
戦争が出てきたついでに、話題を変えます。 「ホロコースト・ミュージアム」の「ナチスのプロパガンダ」をテーマにした企画展の話はとても興味深く思いました。 「何度も続いた中東戦争についての展示が、まったくないことに気がついた(つまりイスラエルにとって都合の悪い戦争が、見事にこの展示からは消えている)」っていうのは、非常におもしろい(という言葉は語弊があるかな)話ですね。
ホロコースト・ミュージアムとは少しズレますが、日本の博物館展示についても、同じようなことを感じませんか。原爆にせよ、沖縄戦にせよ、東京大空襲にせよ、日本の博物館や資料館の戦争展示はおおむね被害者史観(ただし加害者が誰だということは特定していないので、よけいぼんやりした印象になるのですが)でつくられている。 東京にはいくつもの戦争博物館がありますが、靖国神社の遊就館はちょっと特別だとしても(でも、ここの展示はじつによく出来ています)、江戸東京博物館の東京大空襲展示(かなりのスペースをとっています)、東京都慰霊&震災復興記念館(両国の江戸博に隣接しています。大震災と大空襲の展示があります)、昭和館、東京大空襲戦災資料センターなど、いずれも被害者史観、ないし史観がない(昭和館などが典型で、戦災はまるで自然災害のような扱いです)という状態です。 そのことに違和感を抱きつつ、「被害者としての(非戦闘員の?)戦争体験」と「加害者としての(軍部あるいは戦闘員の?)戦争責任」をどう結びつけたらいいのか、ずっと考えあぐねていたのです。 でも、たとえば現在、東京都慰霊&震災復興記念館が立っている横網町公演は、陸軍被服廠の跡地です。そして東京にはかなりの数の軍需工場があった。つまり東京は、アジア太平洋戦争の中枢をになう軍都だった。 だから東京は空襲にあっても仕方がないんだ、などということにはもちろんなりませんが、東京大空襲の被害について語るなら前史としての「軍都東京」もセットで見ておかないと、全体像を見誤るなあと、遅まきながら思った次第です。
その伝でいけば、広島だって軍都だった。広島の平和記念資料館は見ていないので、展示がどうなっているのかはわからないのですが、平和記念資料館のウェブ上の資料をみると、展示室の説明として次のような文章が載っています。
広島市は近代化の波に乗って、しだいに学都・軍都の性格を強めていきました。 日清戦争(1894−95年)当時、戦争の指揮をとるための最高機関である大本営が設置されました。帝国議会も開かれ、広島はあたかも首都であるかのようでした。また、たくさんの兵士が戦場に向けて広島南部の宇品港から出兵しました。 日露戦争、第1次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、そして太平洋戦争…。広島は日本の戦争のたびに軍隊の集結・出兵の地となり、軍事施設も拡充されていきました〉(「被爆までの広島」)
こんなことも書いてありました。
広島の多くの産業は軍の命令に協力し、生活物資の生産から軍需物資の生産へと急速に切り替えることになりました。そのため、市民の生活は徐々に苦しくなっていきました。男性は戦場にかり出され、残された女性やこどもは軍需工場に動員され、働かされました。そのなかには、朝鮮半島や中国大陸から強制的に動員され、工場や炭鉱などで働かされていた人びとも少なくありませんでした〉(「昭和期・戦時下の広島」)
以上を読む限り、江戸博の東京大空襲展示などより、よほどしっかりしている感じです。 ただ、一般的にいえば、戦災体験と軍需産業を担った国内の都市の性格がリンクされて語られることはあまりない。 「軍需工場に動員された女学生たち」みたいな話も「被害者体験」の一環に組み入れられがちで、「彼女たちが工場でつくった兵器がだれかを殺したかもしれない」というような視点は欠落しています(特攻隊の少年たちも、被害者であり、同時に加害者でもあるという点では同じです)。 「戦争の語り継ぎ方」について、私はずっと考えているのですが、敗戦後65年経って、体験者が少なくなったいま、必要なのは「加害者にも被害者にもなりたくない」という視点以外にはありえません。という意味でも、銃後を守った「善良な市民」の戦争責任についてはもっと考えたほうがいいし、博物館展示にもそこを組み入れないといけないのではないかなと。 【以下、本稿次回に続く】
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