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第三十八回 情緒過多な魔物 |
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森 達也
斎藤美奈子さま
まずは昨日届いた現代書館の菊地さんからのメールを、本人の了解なく貼ります。
森達也さま 15日、森さん 月末、斉藤さん という、ペースに持っていきたいと思っていますが、未だ、一度も達成せず。 しかし、森さんの所為ではありません。 皆さまお忙しいので、どうしても遅れちゃう。 なんとか、お願いいたします。 菊地
編集者からの催促としては名文だよね。冒頭で「未だ、一度も達成せず」と厳しく断じながら、「しかし、森さんの所為ではありません」と一転する。さらに「どうしても遅れちゃう」とたたみかける。文末の「ちゃう」が曲者です。これが「遅れるのでしょう」だと印象はかなり違う。まるで達人の一連の技の流れを見るようです。 ・・・などと半ば憎まれ口を叩きながら、出版業界の重鎮である菊地さんにここまで書かせてしまったこと、深く反省しています。ごめんなさい。今さらだけど、15日締切という前提だったこと、今回初めて知りました。しっかりと意識に刻みました。これからは誓って厳守します。
> 「引きずるべきもの」が、ほんとに「罪の意識」(というウェットな感情?)でいいのかどうか、私にはまだ答えが出せません。 うん。たぶんというか間違いなく、「罪の意識」は「取扱注意」です。『311を撮る』にも書いたけれど、この意識が反転したとき、(国家樹立から現在までのイスラエルのように)過剰な被害者意識が暴走して手がつけられなくなる場合が確かにある。
>森達也には、しかし、もともと私小説作家的な資質があると自分でも思いません?
これに対しては、「・・・薄々は気づいていました」という答えになるかな。歯切れが悪い理由は、「このスタイルで良し」とまでは、自分でもまだ思いきれていないから。特にノンフィクションを書くのなら、もっとソリッドで突き放した文章(例えばカポーティのような)を書きたいと常々思っているのだけど、結局は「私性」が前面に滲んでしまう。 自分の中に「野獣」ではなくて「グダグダで情緒過多で一人称的な魔物」がいて、それが時おり現れては場をぐしゃぐしゃにしてしまうという感じです。野獣のほうがカッコいいのにね。もちろん、今さら「客観的な記述」などしたくないし、そもそも100%客観的な記述など不可能であることも知ってはいるけれど、本音としては、(自分の本を読みながら)もう少し抑制できないのかなあなどと、吐息をついたりしています。
ここからは前回の続きです。3月末に訪れたタイのサラヤ国際ドキュメンタリー映画祭で、『311』はオープニング上映されました。 上映後はステージでマイクを持ち、観客からの質問に答えねばならない。世界中の映画祭で行われる行事だけど、僕はこれが苦手です。僕だけじゃない。世界中の映画監督のほとんどが、上映後の質疑応答はやりたくないと考えているはずです。 1月に開催されたロッテルダム国際映画祭でステージに現れたアキ・カウリスマキは、明らかな酩酊状態で司会者の質問を無視しながら(しかもいきなりステージで煙草を吸いだしたりして)30分の予定なのに5分で袖に引っ込んでしまい、観客から大きなブーイングを浴びたそうです。実際にそこまでやるかどうかはともかくとして、カウリスマキの気持ちはとてもよくわかる。上映後に「あのカットにはどんな意味があるのか?」とか「この作品のテーマは何ですか?」などと質問されたときには、僕もやっぱり袖に引っ込みたくなる。 喩えは極端すぎるけれど、『ゲルニカ』の横で、「作品をモノトーンにした理由を教えてください」とか 「左上の牛のような生きものは何ですか?」などの質問に答えるピカソを想像できるだろうか。あるいは『第九交響曲』を指揮し終えた直後のベートーヴェンが、「なぜ第4楽章に合唱形式を採用したのですか?」とか「シラーの「歓喜に寄せる」に込めたあなたの思いは?」などの質問に対して、マイクを手に説明するだろうか。 ありえないよね。そんな質疑応答が当たり前のように要求される表現形式は、世界中でも映画だけだ(もちろん書籍や演劇などにおいてもメディアからの取材はあるけれど、特に映画祭における映画の無防備さは突出していると思う)。 質疑応答は拒絶してメディアからの取材にも「いっさい答えない」との選択肢もある。でもよほどのカリスマやビッグネームでないかぎり、そんなスタンスでは映画祭に呼んでもらえないし、パブリシティが出なくなる。ならば公開しても客が来ない。多くの人に観てもらえない。だから(僕も含めて)多くの映画監督は、無理矢理にステージに上がるし、メディアからの取材やインタビューに答えている。ぎりぎりのその一線が切れると、カウリスマキのようなことになる。 ただし単純化を拒絶することを自動律として内包するドキュメンタリーは、ドラマとは少しだけ違います。特に『311』は、(美奈子さんも指摘するように)観客に相当なリテラシーを要求する映画だと僕も思います。つまり負荷が大きい。最低限の説明は必要かもしれない。いや必要なのだろうと思っています。だから気分としては、ぐずぐずと抵抗する一人称的な生理をカポーティ的な論理でねじ伏せながら、取材に答えたりマイクを手にしたりしています。 とにかくサラヤ国際ドキュメンタリー映画祭の初日、僕は30分ほどステージで、観客からの質問に答えました。そろそろ終盤になる頃、「日本ではこの映画に対する批判が、かなり多いと聞きましたが?」と質問された。おそらくタイの映画関係者だと思う。 この質問に対して、「被災地で自分たちを撮るという行為そのものが、まずは不謹慎であると見なされたようです」と答えたのだけど、横に座っていたタイ語通訳の女性が、しばらく宙を仰いでから、「不謹慎はタイ語に訳せません」と僕の耳もとで囁いた。日本に長く留学していた彼女は、「不謹慎」の意味をわかっていた。でもこれに該当する言葉はタイ語にないそうです。 考えてみたら英語でも、「不謹慎」を的確に訳す言葉はない。「非常識」とか「不道徳」とか「冒涜的」などの言葉はあるけれど、「不謹慎」のニュアンスは微妙に違います。 不謹慎には基準がない。道徳でもないし法やルールでもないし個人の良心でもない。強いて定義すれば場の雰囲気。山本七平言うところの空気。つまり大多数の人たちと異なる動きをすること。とても日本独特です。 多数派に従うことを強要する「不謹慎」は、「同調圧力」と言い換えることもできる。多くの軍人や政治家たちが「絶対にアメリカには勝てない」と内心は思いながらも、いつのまにか戦争が始まったこと。あるいは二つの原爆を落とされて水爆実験の被害まで受けながら、(第五福竜丸被曝と)同じ年に原発安全神話の形成がスタートしたこと。 この国の多くの失敗は、この「同調圧力的なメカニズム」によってもたらされたものが多い。ただしもちろん、世界史レベルでも事例はいくらでもあります。例えば911後のアメリカ。ルワンダの大虐殺。中国の文革。カンボジアのクメール・ルージュ。あるいはナチスドイツ。もっと時代を遡れば、十字軍遠征や魔女狩りやレコンキスタや奴隷制度など、場の空気で暴走した過ちを、人類は幾度も繰り返している。 だからこそ学習する。少しずつだけど。でもこの国は学習能力が低い。あるいは場の空気に多数派が感応する傾向が強い(だからベストセラーが生まれやすいんだよね)。多くの人の動きに同調しない人を不謹慎として切り捨てる。排除する。攻撃する。 最近のその事例を挙げます。結局は失敗に終わった北朝鮮のロケット発射について、日本政府と主要メディアのほとんどは、逡巡なく「ミサイル」と断定しました。でも実のところ海外メディアや外電などのほとんどは、「ミサイル」ではなく「ロケット」という表記を使っています(ロイターとかワシントンポストとか、ネットでざっと調べたかぎりではすべてでした)。2009年に国連安全保障理事会が出した北朝鮮非難の議長声明文に記述されていた「the recent rocket launch」(最近のロケット発射)も、日本の外務省によって「最近のミサイル発射」と翻訳されている。 そもそもミサイルとロケットの区別が微妙であることは、美奈子さんも知っていますよね。共通することはロケットエンジンなどの推進装置を持つこと。弾頭を装着すればミサイルだし、観測機材や人工衛星など軍事的ではない機材を搭載したものがロケットです。つまり自己申告。ならば少なくとも他国が、今回の打ち上げを「ミサイル」と断定はできないはずです。 もちろん仮にロケットだったとしても、多くの国民が飢えで苦しんでいるこの状況で、宇宙開発などやっている場合かよとは思う。ほぼ間違いなく軍事目的が本音なのだろうとも思う。その独裁政治体制や最高権力の世襲など肯定などしない。拉致問題も含めて、本当に困った国だと思う。飢えて苦しんでいる人たちを救いたいと思う。 でも打ち上げをミサイルと断定することは別次元。それはあまりに乱暴すぎる。事態はさらに悪化する。 三年前には命中精度と実用性を多くのメディアから疑問視されていた「パトリオット」は、いつのまにか「PAC3」(地上発射型迎撃ミサイル)と呼称を変えながら、今回は当然のように全国に配備されました。なぜ軌道から大きく外れた市ヶ谷の防衛庁にまで配備しなくてはならないのだろう(軌道を外れた標的をPAC3が迎撃できる可能性はきわめて低い)。この二月から三月にかけて、韓国軍は在日米軍とともに、北朝鮮を仮想敵に想定した大規模な軍事演習を実施しました。北朝鮮から見れば、3つの国からの明らかな挑発行為です。防衛省がミサイル防衛(MD)システム導入に投じた費用は一兆円を超えている。一兆円だよ。しかも「PAC3」と「SM3」(海上発射型迎撃ミサイル)を組み合わせてアメリカから購入した国は、世界で唯一、日本だけです。 明らかに座標軸が動いている。でも多くの人は気づかない。なぜなら空気自体が変わっているから。本当に困った。朝日新聞も表記は「事実上のミサイル」。決してミサイルと呼称しないのは、原発報道でも他紙とは一線を画した東京新聞だけ。 新聞を読みながら、ここ数日はため息ばかりをついています。
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