現代書館

WEBマガジン 12/07/30


第四十二回 17年前と変わったこと、変わらないこと

森 達也

斎藤美奈子さま


>「戦艦ポチョムキン」の手法ですね(という理解でいいのかな)。
 いいのです。映画史上に残る「オデッサの階段」のシーンは、モンタージュのお手本として、いろいろな映画でもパロディとして(ブライアン・デ・パルマの「アンタッチャブル」とか)よく引用されています。
 
>文学は暗喩から腐っていくからさ。
よく意味がわからないのだけど、すごく鋭いことを指摘しているのだろうなということは、何となくわかる。こういうことを「いくからさ」と蓮っ葉に書いてしまうスタンスは、やっぱり斎藤美奈子ならではだね。

 >菊地逮捕関連のツイッターを見ていると、「A」「A2」「A3」を読め(見ろ)という声がずいぶんたくさん上がっていました。事件から17年たって、事件自体を知らない人たちも増えている。ああいう映画や本を出しといて、よかったよね。

 よかったよね、と言われると、ううむと唸りたくなる。まあ、価値ある作品を書いた(撮った)と言われて悪い気はもちろんしないけれど、でもやっぱり、数日前の高橋克也容疑者逮捕の報道などをテレビで見ていると、画面の中に映る光景が、17年前とまったく変わっていないことに驚きます。ゲストコメンテーターは江川さんか有田さん。これも昔とほぼ同じ。菊地直子の愛の逃避行などワイドショー的(当時もオウム・シスターズとか上祐さんの愛人? だとか麻原はメロンが好物だとか)展開であることや、オウムの背景には北朝鮮がいるとかロシアがどうとかの謀略史観的な要素もほぼ同じ。アナウンサーの顔が違うだけ。まるで当時のコピーそのまま。見ているとタイムスリップしたかのような気分になる。結局のところ、「A」「A2」「A3」などには、何の影響力もなかったのだとつくづく思う。
でもひとつだけ、17年前とは明らかに違う要素がある。
 高橋克也容疑者逮捕劇の際に、ふんだんに使われた監視カメラの映像です。銀行のカウンター。路上。エレベーターの中。駅のホーム。とにかく至るところにいる高橋容疑者の映像が、毎日のように公開された。
 氾濫するこれらの映像を眺めながら、誰も「つまりは俺(私)だって日常をいつのまにか撮られているのか」とは思わないのかな。「自分の映像がどこかに記録されて保管されている可能性だってある」と気にならないのだろうか。
 17年前、街に監視カメラはほとんど設置されていなかった。でもオウム事件をきっかけにして、街のいたるところに設置されるようになった。その数は今では全国で三百万台。国民40人につき一台。皮肉なことに、自分が加担した事件によって増殖した監視カメラによって、高橋容疑者は追い詰められ、最後には逮捕された。
 三年前に警察庁が実施したアンケートでは、「カメラに監視されているようで落ち着かない」と答えた人は二割に満たず、過半数は「見守られて安心できる」と答えている。
見守られて安心という心情の背景には、「この国の治安は悪化している」との思い込みが、まずは大前提として働いている。いろいろな媒体で何度何度も何度も書いているけれど、犯罪の発生件数はここ十年でほぼ半減しているし、殺人事件は毎年のように戦後最少を更新しているのに(昨年は1051件とやっぱり戦後最少)、これを知る人はとても少ない。
 それともうひとつ、見守られたいとの願望の背景には、個ではなく集団として動きたいとの心情が働いているのだと思う。オウムや拉致問題で喚起された集団化への希求は、未曽有の災害である3・11でさらに加速した。例えばここ一年、反(脱)原発デモがこれほどに多くなったことについても、(僕も心情的には反原発だけど)やっぱり集団化しやすくなった今の世相が現れていると思う。
 テレスクリーンという監視カメラ(件テレビジョン)で国民が監視される管理統制社会を描いたジョージ・オーウェルの『1984年』は、最近も新訳本が刊行されたばかりだし、何度も映画化もされている。少なくとも「A」「A2」「A3」などよりはるかに多くの人に読まれたり観たりされていると思うのだけど、ならばなぜ、監視カメラが増殖していることに、多くの人はこれほど不感症でいられるのだろう。
 ちなみに、(監視カメラの映像も含めて)最近は街のいたるところで見かける指名手配犯の顔写真入りのポスターは、ヨーロッパの国々などではほとんど見かけません。なぜなら無罪推定原則があるから。もちろん日本においても(近代司法国家であるならば)重要な原則のはずだけど、「悪い奴を捕まえろ」的な意識が高揚する過程で、ほとんど無効化されているのが現状です。

 6月26日から新宿のニコンサロンで開催される予定だった企画写真展「中国に残された朝鮮人元日本軍『慰安婦』の女性たち」が、直前に中止されました。ニコンがカメラマンの安世鴻(アン・セホン)さんに通達した中止の理由は、「政治的な写真だから」とのこと。
これにはあきれた。本当に。
 政治的ではない表現などありえない。仮に政治性がほとんどない写真ではあっても、それは「政治性がない」という政治性を帯びているとの見方もできる。ましてニコンは、多くの報道写真家たちによって愛されたメーカーなのに。言い訳にすらなっていない。
 どうやら本当の理由は、ニコンに対して「これは反日的な写真展である」との抗議があったかららしい。かつて映画『ザ・コーブ』上映に対して激しい抗議活動を行った「主権回復を目指す会」は、ニコンが中止を決めたあとに「中止決定を支持する」との示威行動を、ニコン本社前で展開しています。今もネットでは、安さんに対する個人攻撃が行われているとのこと。
 底流する構造は、すべて同じなのだろうと思う。ここのところ過激さを増すばかりのネット右翼の行動も、やはり背景にあるのは集団化です。そういえばテレビ・ディレクター時代、ドキュメンタリーの被写体にした韓国から来た女性留学生が、「どうして日本の女性は一人でトイレに行かないの」って怒っていたことを思い出す。休み時間になると「トイレに行こう」って誘いに来るんだって。
 そもそもは集団行動と、とても相性が良い国だった。でも今は加速している。これ以上集団化してどうするんだって言いたくなるけれど。

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