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web掲示板談話 斎藤美奈子・森達也 第142回 |
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件名:公開直前にうだうだと思うこと 投稿者:森 達也
美奈子さま
『福田村事件』公開まで二週間を切ったけれど、取材の依頼は相変わらず多い。これまでの映画で取材依頼がいちばん多かったのは『Fake』だったけれど、物量的にはその数倍じゃないかな。 一昔前は、取材を申し込んでくるメディアのほとんどは新聞と雑誌だった。今は半分以上がネットメディアだ。さらに、同じ新聞や雑誌から依頼が続けて来て、不思議に思って前に受けましたよと言うと、今回はウェブ版です、と答えられることも頻繁にあります。 取材を受けることは(好きか嫌いかで言えば)好きではない。でも映画を撮ったなら取材は受けねばならない。この夏はその思いで日々を過ごしている。好きではない理由はいくつかあるけれど、質問に対して答えることが嫌なのだと思う。 質問に答えたくない。これは映画を撮ったり文章を書いたりする人の多く(すべてではない)に共通する感覚だと思う。数年前に釜山映画祭でばったり会った想田和弘監督に、「この映画のテーマを教えてほしい」とか「あのカットの意味は何ですか」などの質問には本当にうんざりすると愚痴を言ったら(映画祭に招待された監督は、ほぼ必ず上映後に観客とのティーチインや質疑応答を要求される)、僕はそういう質問に対しては「あなたはどう思いましたか」と訊き返すことにしています、と教えられて、なるほどそれは妙案だと感心したけれど、同じ場で何度もこの対応を続けたら嫌味な奴だと思われる。一回か二回が限界です。 だから結論。やはりティーチインや舞台挨拶などは、できるだけ回避することがベストなのだ。 初めての映画『A』がプレミアム上映された98年の山形国際ドキュメンタリー映画祭のときも、上映後に観客と質疑応答の予定になっていることを知って当惑した。結局はステージに上がったけれど、不貞腐れていたので印象は悪く、盟友でプロデューサーの安岡卓治はもう少し大人になれないのかと怒っていました。 そのときはステージに上がりたくない理由はわからなかった。でも今はわかる。映画に限らず映像作品の編集の基本はモンタージュです。異質なカットを組み合わせることで意味を創出する。ジュースの入ったコップを手にするカットの次に、そのコップが空になったカットが続けば、誰もがジュースは飲まれたのだと解釈する。こうしたシーン(カットの集積)がさらに別のシーンにつながり、物語は紡がれる。 言い換えれば映像作品は、観る側の想像力を前提とするジャンルです。もちろん行間を想像させるという意味では文芸やノンフィクションなど文章も同じだけど、映像はその機能がよりストレートだと思う。 だからこそ解釈は人によって微妙に違う。自分の狙いとずれる場合もあるけれど、なるほどそう解釈したのかと新たな発見をさせてもらう場合もあるし、自分でも認知していなかった深層の意識に気づかせられる場合もある。 映画は観た瞬間に観た人のものになる。撮影の裏側で何があったのかとか裏事情を知りたくなる気持ちはもちろんわかるけれど、そうしたニーズにあっさりと応えたり、疑問に対して正解があるかのような言いかたを自分がすることは、それぞれの解釈に水を差すと思っている。自由に解釈してほしい。間違いなどない。すべて正解なのだ。 もうひとつの理由は、質問に答えることは間接話法を損なうから。脱原発。戦争反対。人権を尊重せよ。これらのスローガンは直接話法だ。つまり言葉どおりの意味。でも表現に関わる仕事をするのなら、手元のペットボトルや拾ってきた子猫や壊れたラジオなどをモティーフにしながら、脱原発や戦争反対の意図を示したい。例えばペットボトルの材質はポリエチレンテレフタレート。広義のプラスティックで原料は石油。その製造過程を示しながら、電気や核エネルギーについて如何に想起させるのか。 つまりメタファー。表現においては回りくどさが重要だと思っている。なぜそう思うのか。そのほうが深く届くから。自分自身もこれまで多くの映画を観たり本を読んだりしながら、隠喩に気づいたとき(または気づいたと思い込んだとき)、その意味が深く突き刺さることを何度も体験している。
でも観る側と観せる側とが言葉でやりとりする質疑応答は、作品で構築した間接話法や隠喩をぶちこわす。
だから『i-新聞記者ドキュメント-』のラストで、自分の声でナレーションを入れることを決めたときは、かなり逡巡しました。でもあのときに決断した理由は、映画ではこれまで封印してきたナレーションを使うことで、語る言葉以上の意味に多くの観客は気づいてくれるはずと考えたから。つまりナレーションを入れるという作為を示すことが、ある種のメタファーとして機能する。でもこれは、森の作品をこれまで観てきた人たちに限られる。マーケットが小さいドキュメンタリー映画だからできたこと。 ちなみに、情報はいっさい出さないという姿勢は、ジブリの今回の戦略だ。いや戦略ではない。宮崎監督は、ようやくここまで来たと思っているはず。取材に応えず情報を出さないことが宣伝になる。それはジブリだからできること。僕がそんなことをしたら、パブリシティが出ない。ならば多くの人は映画の存在すら気づかない。作ったからには多くの人に観てほしい。それも本音。だから今は、必死に取材を受けています。 でもそれも公開まで。公開が過ぎたら(いくつか断れない舞台挨拶はあるけれど)、この映画を過去にしたい。言葉を封じたい。今はそう思っています。
森 達也
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